将来の不安定さを抑える手を打って盤石な道を伸ばしていくよりも、知的好奇心を刺激することを考えたほうが断然モチベーションが上がった。交通問題や救急医療、自殺の心理などを探っていく際も、「知りたい」「伝えたい」という純粋な感情が第一優先。日常生活の維持や功名心みたいなものは、あったとしても優先順位は確実に下だった。
奥さんを巻き込んでしまって申し訳なかった
バラバラの点としての事実が取材を重ねていくうちに線や面になって、抱いていたモヤモヤや疑問が解消されていく――その過程が何よりも自分をワクワクさせる。その性分を自覚したのはライターになってずいぶん経ってからのことだったという。
「だから本当、奥さんを巻き込んでしまって申し訳なかったですよ。こういう人間だとわかっていたら結婚とかして迷惑をかけなかったと思う。この仕事って、生活安定のための手段としてやっているわけじゃなくて、コレがやりたいからやっているわけでしょ。将来がどうなろうが、食えようが食えますが、それやりたいんだからしょうがない。そういうふうに思う人じゃないとこんな不安定な仕事、続けられないじゃないですか」
売れっ子になった後も、夜中にふと「半年後は食べていけているんだろうか」と不安に襲われて眠れなくなることは日常茶飯事だった。矢貫さんはこれを「恐怖のマグマ」と表現する。
「年収が1000万円2000万円超えようが、『この連載はあと2年続くな。じゃあその後どうなる?』みたいな感じで恐怖は全然消えてくれない。最近は人生の終わりが見えてきたからようやく少しは落ち着いてきたけど、20年経っても30年経ってもマグマの量は変わらなかったですからね」
恐怖のマグマは消えないし、周囲に迷惑をかける可能性もある。それでも知的好奇心を優先できる性分だからこそ手に入れられたキャリアなのかもしれない。
ただ、フリーライター、あるいはノンフィクション作家として成功しても、原点の目標であるタクシー運転手の窮状を世に訴えるという仕事はまだ成し遂げていなかった。ついに動き出したのは2005年の暮れのことだ。
「タクシー運転手の事情なんて今も昔も世間は興味がないわけですよ。有名人が声を上げないかぎり耳を傾けてくれない。だから、ビッグネームになるまで温めておこうと思っていたんだけど、ちっともビッグネームにならない(笑)。それなら有名雑誌に書いて気づいてもらおうと思って、よく仕事している文藝春秋の編集部に『ちょっと京都の部屋代だけ面倒みて』と相談しました」
事務所や家族は都内に残しつつ、それまで抱えていた連載仕事をほとんど終わらせたうえで京都入り。かつて働いていたタクシー会社に再就職し、2006年1月から8月まで勤め上げた。ウラの目的は隠した潜入スタイルの長期取材だ。吹っ切れて行動に移せたのは、還暦が近くなって「恐怖のマグマ」が多少落ち着いてきた、つまり、人生の先が見えてきたからかもしれない。
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