矢貫さんが生まれたのは1951年の栃木県。まもなく東京都北区の堀船に移り、両親と妹の4人で暮らした。子どもの頃の記憶はあまりないが、とにかく目立つのが嫌な子どもだったことは覚えているという。中学校までは大勢の同級生と同じように野球に熱中し、高校では陸上部に入ったがすぐに腰を痛めて引退した。勉強も好きではなく、学業で注目を集める心配はなかった。ヘンに目立たず、普通であればいい。
大学受験に際して、親の仕送りを一切受けず授業料も生活費も自分で賄おうと考えたのも、18歳によくある自立心の高まりによるものといえばそうだ。少なくとも家庭環境や経済的な事情から決めたことではなかった。「僕らの年代では全部自分で稼ぐっていう学生は珍しくなかった。自分もそういう感じで大学に行こうかなと。ただそれだけのことでしたよ」。
学力的に国立大学はターゲット外。入学金と授業料がなるべく安くて、学生がありつけるバイトが近場にたくさんありそうな私立大学を片っ端から調べた。そうして絞り込んだのが京都にある龍谷大学であり、ここでの生活が矢貫さんの人生を決する。
1浪の後に入学した1971年は学生運動が激しかった最後の年で、キャンパスは「校舎の屋上から机がバンバン落ちてくるような」騒然とした空気に包まれていた。1年後期に全面ロックアウト(閉鎖)となり留年を余儀なくされたこともあり、大学には都合6年間通うことになる。
学生運動には特に反感も興味も抱かず、矢貫さんの関心は授業料と生活費を稼ぐことに向けられていた。最初のうちは修学旅行の生徒たちが泊まる旅館で布団敷きのバイトによって生計を立てていたが、早朝と夜に精いっぱい働いて日給1700円だった。タクシーの初乗り運賃が120円の時代ではあるが、これでは余裕のある暮らしはやってこない。
当時は勘違いしてタクシー運転手になるヤツが多かった
そこで目を付けたのがタクシーの運転手だ。運転手になるには、普通(一種)免許取得から3年以上経過していないと取れない普通二種免許が必要だが、1浪や留年のおかげもあって矢貫さんは大学の3年次に取得できた。そのままタクシー会社に雇用され、当時京都では2人しかいなかったといわれる学生タクシー運転手のうちの1人となる。
社員雇用のタクシー運転手は出勤してタクシーに乗り込むと、時間帯や曜日、天候などさまざまな情報を考えて己の裁量で市街地を走ることになる。給料は歩合制が一般的で、人並みに仕事をしていれば水揚げの6割ほどが運転手の取り分になった。
「僕も含めて、当時は勘違いしてタクシー運転手になったヤツが多かったですよ。運転が好きで気ままだからやるっていうね。でもそうじゃない。コツコツと務められる人じゃないとちゃんとは稼げないんですよ」
それでも、そこそこまじめに働けば月収は新卒のサラリーマンの初任給より多かった。学生に必要な額にはすぐに届くようになり、手の抜き方もすぐに覚えた。「今日は一生懸命やって、明日はシフトを入れずに遊びに行こう。その次も。みたいなことができちゃう。大学もあまり行かなくなったし、もうぬるま湯ですよ(笑)」
あまりの心地のよさに大学を卒業してからも勤務していたが、1年近く経った頃にこのままではいけないと退職を決意する。さまざまな理由があった。実は高校時代から付き合っていた同郷の女性と学生結婚していたこと、「40~50歳になってこの生活はできないな」と常々思っていたこと、いずれは物書きで食べていこうと漠然と考えるようになっていたこと、だ。
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