66歳、「物書き」をトコトン極める男の稼ぎ方 職歴40年、盤石な道よりも刺激を選んだ

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とはいえ、明確なビジョンを描いているわけではなかったので、夫婦で帰京後もしばらくは実家の近くのアパートで暮らしながら、失業保険で食いつないでブラブラしていた。すると地元の友達から運送業を手伝ってくれと誘いがきたので、今度は長距離輸送のトラック運転手として全国を回るようになる。

「当時は普通免許で4トントラックまで乗れたので、すぐ始められましたね」

長距離トラックの仕事は体力的にきつかったが、乗客や乗車率などに気を遣わなくていいぶん精神的には楽だった。ずっと続けていられそうだったし、実際2年の月日があっという間に過ぎた。しかし、1970年代とともに20代も終わりに近づいてきている。このままじゃいけない。そう、物書きにならなければ。ここでようやく出版社への就職活動を始める。

物書きになりたいという思いはタクシー運転手時代に感じた憤りからきている。当時は2年に1回程度のペースでタクシー運賃が値上げされたが、そのぶん歩合が下がったために、乗り控えの逆風もあって運転手の取り分はむしろ低くなっていた。しかし、外部にはそんな事情は伝わらない。乗客からは高い運賃とりやがってと文句を言われ、新聞を読んでも運転手の境遇に同情する論調はまったくなかった。

タクシー運転手という職業の社会的な信用も低く、アパートが借りられなかったり信販でモノが買えなかったりということが普通にあった。「大学行ってんだし、早く足洗って運輸大臣になって俺らを助けてくれよ」――業務を終えて会社でその日の売り上げを精算しているとき、先輩ドライバーからそんな冗談をよく言われた。

「まあ運輸大臣は無理だけど、同学年の村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で(1976年の)芥川賞を取った頃でもあったし、物書きになって訴えるという手もあるなと思ったんですよ」

ライターとしての初年度の年収は12万円

しかし、経験も実績もない人間を雇ってくれる出版社はどうにも見つからない。大手から中堅、零細へと狙いを変えていったが、相手にされない結果は変わらなかった。ならばフリーライターでやるしかない。友達の会社はすでに退職していたため、白トラ(※白ナンバートラック。営業ナンバーを持たない、いわゆるもぐりのトラック)の会社でトラックを転がして生活費を稼ぎながら、自前の名刺を持ってもう一度就活をやり直した。自らの職歴を振り返り、狙うは自動車関連の媒体だと照準を定める。そうして何十という雑誌編集部を巡るうち、ようやくかすかな光が差してきた。

自動車雑誌『CARトップ』(交通タイムス社)は、埋まらなかった広告枠や何らかの事情で空いてしまったスペースに“埋め草”の記事を書く仕事を与えてくれた。全日本トラック協会の機関紙『広報とらっく』はさすがに白トラ経験者に枠を作りはしなかったが、別の業界新聞を紹介してくれた。その業界新聞では先輩記者の取材に同行する仕事などを通して、大きな知見をもらうことになる。初年度のライターとしての年収は12万円。白トラの稼ぎなしにはやっていけない。しかし、確実にスタートラインの先に進むことができた。

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