「西郷どん」はボスマネジメントに失敗した 大久保利通との差には理由があった

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幕末から明治維新への時代の変化に最も尽力した3人(維新三傑)として木戸孝允と並び評される西郷氏と大久保氏。同じ地域で生まれて、同じ時代を生きながら、歴史の舞台で活躍した時期は違っていました。

西郷氏が活躍したのは幕末から維新にかけて。大久保氏の活躍は、維新以後に目立っています。その違いはどうして起きたのか? 筆者が注目したのは上司=ボスとの関係にあります。この2人がかかわった代表的なボスは島津斉彬と島津久光。兄弟ながら血のつながっていないこの2人は、部下のマネジメントにも大きく違いがありました。

斉彬氏は時代の先端を走りつつ、部下に仕事を任せるタイプ。一方の久光氏は実直で、安定を志向しつつ、忠義を求めるタイプ。この違いに対する適応の仕方で、2人が活躍する時期が変わったのではないかと筆者は考えています。

西郷氏は薩摩藩主の斉彬氏から目をかけられ、下級武士から藩の重要な役割に抜擢。藩政に参画できる立場になります(当初の肩書は庭方役と大したものではなかったようですが)。この上司による抜擢が、その後の明治維新における重要人物となる、きっかけとなりました。また、西郷氏自身も「民の幸せこそが国を富ませ強くする」という信念を持つ斉彬氏に惹かれ、円滑な上司部下の関係を築いた時期でした。

ところが、斉彬氏が亡くなり、後継者となった久光氏のマネジメントとは合わず、島流しに遭うなど苦しい時期が続きます。一方で大久保氏は斉彬氏の時代には父親が謹慎処分であったこともあり、不遇な立場でしたが、久光氏に抜擢されて頭角を現します。さらに久光氏の意向を汲んで、薩摩を幕末の中心的な存在に押し上げていきました。歴史的には、斉彬>久光のように力量を評価されがちですが、大久保氏のように、久光氏を上司にして、水を得た魚のように活躍した人はいたのです。

ボスに対する適応力の差

仮に大久保氏が斉彬氏を上司にしたならば、活躍できたのか? それはわかりません。ただ、明らかなのは西郷氏が上司に対する適応力は低かったこと。これを現在に当てはめたら何を学びの機会にできるでしょうか?

上司=ボスが変わると活躍の度合いが大きく変わる人がいます。逆に上司が変わっても活躍の度合いが変わらない人がいます。これはボスに対する適応力の差に起因するのではないでしょうか?

上司各人のマネジメントスタイルには違いがあります。たとえば、部下に高い目標を与え、叱咤激励するドライバー型。対照的に部下の満足度や成長に気を配るエンハンサー型。どちらかの上司しか受け入れない部下もいれば、どちらの上司でも気にならない部下がいます。この違いが適応力から生まれます。

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