「父母と娘のトリプル介護」をする作家の人生 「5000通の葉書」が命を繋いだ
「義父は知らん人にも、どないやーと声をかけるような、関西のオッチャンで、本当におもろいんです。すすめられて息子と会うてみたら、もの静かな人でした。“一生懸命仕事してんねん。ええやっちゃで。うちに嫁に来いへんか”と、義父にプロポーズされたんですよ(笑)」
あと50センチ車道に出たら楽になる
26歳で正嗣さんを、28歳でかのこさんを出産した。
ところが、生後2か月を過ぎても、かのこさんは上をじっと見たままで、目で物を追わない。
「目が見えてへんの違うか?」
夫に指摘されて、総合病院で検査をすると、こう告げられた。
「脳自体が萎縮しています。脳性麻痺という障がいで薬では治りません。目も見えるようになるかわからないし、耳が聞こえているか、調べるすべがありません」
脇谷さんは呆然としたまま帰宅した。すぐに当時住んでいた大阪府堺市の近所で、障がい児を育てた経験のある人を探した。筋ジストロフィーの息子を16歳で亡くした60代の女性が見つかり、訪ねていった。
「こんだけの障がいのある子、よう育てん」
脇谷さんが泣き崩れると、そのオバチャンは、なぜか笑顔で言った。
「よかったな。こっからがほんまもんの人生や」
「嫌です! ほんまもんの人生なんか歩きたくない」
泣き続ける脇谷さんに、オバチャンは繰り返した。
「あんたやで、あんたが変わらなあかんねんで」
成長するにつれ、かのこさんはけいれんの発作を頻繁に起こすようになった。寝返りすら打てなくなり、首もすわらない。手足などが勝手に動く不随意運動がひどく、ベビーカーに乗せると落ちてしまう。すぐに体調を崩し、毎月のように入院した。
小学校に入学する年齢までには歩けるようにしたいと、懸命にリハビリをしたが、状態は悪くなる一方……。
専門の施設に預ければと言われるのが怖くて、内心の焦燥を夫にすら見せず、いつも明るく振る舞った。
どうしてもこらえきれなくなると、ひとりで泣いた。そんな母の姿を、まだ幼かった正嗣さんは覚えている。
「部屋の隅っこでしょっちゅう泣いていました。母は僕が見ていないと思っているけど、見てましたから」
唯一、オバチャンの前では弱音を吐いたが、何度訪ねて行っても、かけてくれるのは同じ言葉だった。
「あんたが変わらなあかん」
ある日突然、脇谷さんは食べられなくなり、仮面うつ病と診断された。自分が死んだら、かのこさんはどうなるのかという不安が原因だった。
いっそ一緒に死んでしまおうとは思わなかったのか。恐る恐る聞くと、「ありましたよ」とあっさり答える。