プロ野球の残念な体質を映すドラフトの53年 自球団の利益を優先、共存共栄とは遠かった

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プロ野球ドラフト会議  早実高・清宮幸太郎内野手の交渉権獲得の札を手に、笑顔を見せる日本ハムの木田優夫GM補佐(右)と栗山英樹監督=10月26日午後、東京都内のホテル(写真:共同通信社)

清宮幸太郎はどの球団に行くのか、と世間が大注目した今年のドラフトが終了した。清宮は日本ハムが指名権を得たが、それ以外にも一軍に出場が可能な支配下枠で81人、二軍の試合にしか出場できない育成枠で32人の選手が指名された。

ドラフト会議で指名されることは、日本のすべての野球少年にとって究極の目標だ。減少に転じたとはいえ、高校球児は15万人。高校3年生の球児が5万人で大学生や社会人も含めれば、約5.5万人の中からたった100人ほどしか指名されないのだ。

筆者はこの秋、宮崎で行われている若手の教育リーグ、フェニックスリーグを取材した。ここには独立リーグ、四国アイランドリーグplusの選抜チームが参加していた。

独立リーグの場合、指名の可能性がある選手には、NPB(日本野球機構)球団から独立リーグ球団を通じて「調査書」という書類が送付される。「調査書来た?」と聞くと「2枚来ました」「1枚だけ」と頰を緩めて言う選手がいた一方で、そっけなく「いえ」と返す選手もいた。なかなか残酷なものだ。

最初から不完全だった日本のドラフト

ドラフト会議は、日本では1965年に導入された。

前年の1964年、MLB(メジャーリーグベースボール)はドラフト制を導入した。アマチュアの有望選手獲得に「金がかかりすぎる」ために資金が潤沢なニューヨーク・ヤンキースなどに有望選手が集中した。チーム力に大きな差が生まれたため、MLB全体の観客動員が伸び悩んでいたからだ。

これを解消するために、有望選手をリストアップし、前年の下位チームから順番に指名するドラフト会議を導入したのだ。目的は「選手獲得コストの削減」と「戦力均衡」だった。

ちなみに、ドラフト制度そのものは、野球界の発明ではなく、アメリカンフットボールのプロ組織NFLが導入したのが最初だが、野球のドラフトが有名になった。

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NPBでは1964年に西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)のオーナーだった西亦次郎が、ドラフト制の導入を呼びかけた。

西はライオンズが創設された1950年からオーナーを務め、稲尾和久、中西太などのスターを擁して黄金時代を作ったが、有望選手をめぐる争奪戦に辟易していた。

南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の監督、鶴岡一人は実質的なGMでもあったが、ボストンバッグに札束を詰め込んで、夜行列車で有望選手の自宅に乗り込み談判することもあった。誇張ではなく選手争奪をめぐって、札束が舞い飛んでいたのだ。

圧倒的な資金力があった巨人は、こうした争奪戦の最終勝利者だった。他チームのスカウトが掘り当てた「金の卵」を後から来て横取りすることも珍しくなかった。かの長嶋茂雄も、南海ホークスに入団が内定していたが、最後の最後で巨人に奪われたと言われている。

西オーナーも何度も煮え湯を飲まされてきた。そこでドラフト制度の導入を提案した。巨人は当然ながら猛反対したが、多数決によって1965年からの導入が決まった経緯がある。

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