NPBのドラフトは最初から、MLBとは違っていた。MLBのドラフトが前年の下位チームから順番に選手を指名していく「完全ウェーバー制」だったのに対し、NPBは、事前に名簿を提出し、選手が重複すればくじ引きで指名球団を決めるというものだった。「完全ウェーバー制」には巨人などセ・リーグの球団が反対したため、このような形になったと言われる。
最初から日本のドラフトは、不完全な形でスタートした。しかし、その効果は劇的だった。
セ・リーグでは導入された1965年から巨人のV9が始まるが、これが終わった1974年以降、広島、ヤクルトがセ・リーグで初優勝。
中日、阪神、横浜(現DeNAベイスターズ)も優勝し、セの戦力均衡は進んだ(右表)。
【11月13日10時50分追記】記事初出時、表中のセ・リーグ優勝回数で1960年~69年の箇所が中日2、阪神0となっていましたが、正しくは中日0、阪神2のため、該当箇所を修正しました。
パ・リーグは、50年代、南海(現ソフトバンク)と西鉄(現西武)が2強だったが、ドラフト施行後、群雄割拠の時代になった。これまで優勝に縁がなかったチームは、チャンピオンフラッグを得るたびに観客動員を増やした。
長く観客動員でセの半分以下に甘んじていたパ・リーグだが、2017年の入場者数は、セ・リーグ1400万人余の動員に対し約1100万人と、もう少しで肩を並べるまでになった。
MLBもドラフト制度を導入後、戦力均衡が進んだ。それまで、映画やミュージカルにもなったように「くたばれ!ヤンキース」といわれ 圧倒的に強かったヤンキースが「普通のチーム」になり、多くの球団が優勝争いに絡むようになる。
MLBはこの機を逃がさずエクスパンション(球団拡張)を進めた。1964年時点で20球団2128万人だった観客動員は、10年後の1974年には24球団3002万人、現在は30球団7267万人にまで拡大している。
ドラフトによる戦力均衡の進展は、日米ともに球界全体に大きな恩恵をもたらしたと言える。
ドラフトの半世紀は「骨抜き」の歴史
しかしNPBのドラフト制度は、施行後も、新人獲得にまつわるさまざまなトラブルを引き起こした。そして何度もルールが変更された。大まかな変更だけでもこれだけあった。
1965年 ドラフト制施行 指名重複の抽選は1位だけ。2位以下は前年の球団順位による。
1966年 1次、2次の2回実施される(この年だけ)。
1978年 2位以下も指名重複の場合は抽選。
1991年 指名重複の抽選は4位までとなる。この年限りでドラフト外入団が廃止される。
1993年 高校生以外の1、2位指名選手に「逆指名」を認める。
2001年 「逆指名」に代わり「自由獲得枠」を設置。内容は「逆指名」とほぼ同じ。
2005年 「自由獲得枠」は「希望入団枠」となる。高校生と大学・社会人の2回ドラフト会議が行われる。「育成枠」も設けられる。独立リーグの選手もドラフトの対象となる。
2007年 「希望入団枠」廃止。1位指名のみ重複した場合は抽選となる。
2008年 高校生と大学・社会人のドラフトを統一。
MLBではこの間、年2回行われていたドラフト会議が、1986年から6月の1回だけになった程度で、制度そのものは導入時とほとんど変わらない。
ちなみにMLBでの選手指名は1球団40人、全体で1200人にも及ぶ。また「ドラフト会議」と銘打っているが、NPBのように会場を設けてイベントをするのではなく「電話会議」で行われる。NPBとはその実態は大きく異なっている。
NPBのドラフト会議のこうしたルール変更は、ひとえに意中の選手を自軍で独占したいという一部球団の圧力によるものだった。
その圧力は、ドラフト施行後も様々なトラブルを巻き起こした。
ドラフト施行後の最大のトラブルは、1977年~1978年に起こったいわゆる「江川事件」だ。作新学院の超高校級右腕だった江川卓は、高校卒業時のドラフトで阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)の1位指名を蹴って法政大学に進む。ここでも傑出した成績を上げてドラフトを迎えたが、クラウン(現西武ライオンズ)の1位指名を再び蹴ってアメリカ留学、翌年のドラフト前日に帰国し、巨人と契約を結んだと発表した。
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