カープの堅実経営を他球団が手本にするワケ 「12球団で最も貧乏」な歴史が結束を強める
今年、37年ぶりのプロ野球セ・リーグ2連覇を達成した広島東洋カープ。クライマックスシリーズ(CS)ではリーグ1位のアドバンテージを生かせず、残念ながら日本シリーズ出場を逃してしまいましたが、今シーズンは異例の強さを見せました。開幕直後から破竹の10連勝、5月28日以降は一度も首位を譲りませんでした。
「カープ女子」「神ってる」など流行語大賞の候補に挙がるワードが出てくるなど、何かと「新しさ」が話題になるカープ。今年の88の勝利数のうち、41試合が逆転勝ちとなった強さの背景に、「タナキクマル(田中広輔・菊池涼介・丸佳浩)」や昨年、新4番打者に指名された鈴木誠也選手など若い選手の多さがもたらすチームの勢いが話題になります。
「市民球団」カープ
カープは数年前まで「万年Bクラス」が当たり前。主力選手が次々にFA(フリーエージェント)宣言をして、「カネのあるチーム」に流れていく様を「12球団で最も貧乏」と揶揄され続けてきました。
拙著『広島カープの「勝ちグセ」戦略』にも詳しく解説していますが、そんなカープの歴史は、やはり金銭面の苦労から始まっています。
原爆投下から5年弱の1950年1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁辺り)でカープ球団の結成披露式が行われました。原爆投下で焼け野原となった街を、市民は全力で復興させようと日々努力していた。カープは、そんな市民の希望の光でした。
その光が1年で消滅の岐路に立たされます。理由は「資金難」。県や市から十分な資金が集まらず、選手への給料も払えぬ状態。そこで当時の初代監督・石本秀一氏の声かけで後援会を作り、広く知られる「樽募金」が誕生しました。市民から271万円の支援金が集まり、危機を脱するかに見えた直後、野球連盟が通達を下します。「年度の勝率が30%に達しないチームの処置は理事会が決定する」。
1カ月で31試合というとんでもないスケジュールの中で、弱小チームはなんとか勝率3割を達成。当時2年連続で最下位だったカープは再び解散の危機を免れます。
カープが「市民球団」と称されるのは、かつて財務状態が苦しいときに市民の募金などで生き延び、いまだ12球団唯一親会社を持たずに、市民が中心となって支えている球団だと広く認識されているからです。
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