最後に、「お前は昆布で生きていけ」と言ったお兄さんの話です。喜多條という特徴のある名字と忠という名前で思い当たられた方もいるかもしれません。1973年、120万枚以上の大ヒットを記録した「神田川」の作詞家、喜多條(条)忠さんです。
この他にも、キャンディーズ「やさしい悪魔」、梓みちよ「メランコリー」などの名曲も作詞され、現在は日本作詞家協会の会長を務める歌謡界の重鎮です。そんなお兄さんに言われたら、昆布屋を継がざるをえなかったのもわかるような気がします。

そして、喜多條兄弟のつながりを感じさせてくれるものが、忠氏の初めての著作『神田川』(1974年「新書館」刊)の中にありました。弟(清光氏)の机の中にわら半紙に書かれた詩を見つけて、社会や家族に対する複雑な思いを共感した、という一節です。
弟の詩を引用して、兄の忠氏は「精一杯自分が身体で感じている虚無感、自己の存在が書いてあったが、分かるように思えた」と記しています。この文章を読むと、喜多條兄弟の内面には、大人や世間に立ち向かう青春の熱い血潮が共通して流れている感じを受けます。
なお高校時代の清光氏については「一緒について行った玉突きとパチンコはすでに相当のキャリアがうかがえた」とも書いています。栴檀(せんだん)は双葉より芳し。すでに後年の清光氏の北新地での活躍を予感させるエピソードでした。
昆布水のレシピを毎日研究
そして青春時代の胸の火は、今も喜多條社長の中で燃え続けているような気がします。今でも毎日、深夜2時に起きて昆布水のレシピを5時まで研究。その後、朝8時までフェイスブックなどのSNSを手入れしているそうです。昆布水の魅力を世界に発信することにも情熱を燃やし、ニューヨーク、韓国などでワークショップを実施。またドバイ、フランス、イギリス、ドイツにも「昆布革命」を輸出しています。おなじみの赤いエプロン姿で新幹線や飛行機に乗り、四六時中、昆布のことだけを考えているとのこと。すごいエネルギーです。

その仕事への情熱はどこからくるのか、とお聞きすると、喜多條社長はこう答えてくれました。「やはり遊び尽くしたからだと思います。中途半端で終わらなかったから今があります」。
遊びは芸の肥やしと言いますが、うまく転べば、社長業でも肥やしになるのかもしれません。そう考えていたら、喜多條社長はさらにこう付け加えました。「新地のホステスさんを連れておいしいところを一生懸命探し回ったのも、今思えばよかったと思います。味覚が鍛えられました」。
さすが、なにわの商人。おカネを使っても、ちゃんと元を取っていました。
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