日本を「熱狂なきファシズム」が覆っている 映画作家・想田和弘が考える日本の今
──想田さんはSNSでも積極的に意見を発信しています。メディア業界では、そうしたネットとの付き合い方も大きな論点です。想田さんはネット時代をどう捉えていますか?
僕自身ネットを多用しますが、利点も大きいけれど弊害が大きすぎますよね。こんなもの開発されなければ良かったと思っています。ネットは世の中のスピードを加速させ、それが人間の認知や脳のキャパシティを超え、一つひとつのことを落ち着いて見たり聞いたり、じっくり考えたりすることができない環境になってしまった。あふれる情報のなかで、人間がオーバーロードしてしまっているんです。
見出しだけしか読まずわかった気になる人が増えている
そのせいで、われわれの集中力は損なわれ、ニュースも見出しだけしか読まずわかった気になる人が増えている。これはとっても危険な状態です。中身ではなく装い、一瞬の印象。それによって判断していく傾向がどんどん加速している。安倍政権が共謀罪を議論するときに『テロ対策』と言う表現にこだわるのは、こうした現代人の弱点をわかっているからだと思います。
僕が観察映画と銘打ってドキュメンタリーを作るのは、それに対するカウンターです。ちょっと立ち止まって自分の目と耳でよく見てよく聞いて、よく考えて今の世界を把握し、受け止めていこうという提案なんです。
──日本のテレビ制作者が番組として観察映画を作るのは、チャンネルを変えられてしまいそうで難しい気がしますが。
それ、テレビの人の強迫観念ですよね。でも実際にやったら、それなりに話題になるし視聴者は見ると思います。「何これ? 変だけど面白い」って食いついてくれる人もいるはずです。ただ、会社組織のなかでドキュメンタリーを作るのは、難しい側面もあります。何人ものプロデューサーが関わり提案表を承認する官僚的な階層があるから、予定調和に陥りやすい。ドキュメンタリーなんて、撮って編集してみないとわからないはずです。最初の提案と現場で見たものが違ったら、現場を優先するべき。でも、できたものが提案から外れたとき、上の人たちが「こんなものを承認した覚えはない」となってしまう。だからなるべく現場も当初の趣旨から外れない努力をしてしまう。台本から逸脱する現実に目をつぶり、よく見ず、よく聞かない努力をしてしまう。組織で作るドキュメンタリーには、そういう罠があると思います。