イタリアを目指す「難民」の知られざる素顔 映画「海は燃えている」の監督が語る
──この映画には、監督の声もナレーションもほとんど入っていません。どういう意図で“声”を省いたのですか?
ドキュメンタリーを撮る時は、“映画的言語”を使いたいと思っているからだよ。作り手の視点が入ると本質が見えづらくなってしまい、観客が感情移入できなくなるんだ。ここで言う“映画的言語”とはフィクションの映画を作る時の“言語”とほぼ同じ。ドキュメンタリーを撮る時にもこれを用いることで、現実をより強めたり、時には変換させたりして、観客が解釈しやすいように、あるいは共感しやすいように制作するんだ。
ちなみに、僕は“ドキュメンタリー”を作ろうと思ってカメラを回しているわけではない。僕は“映画”を作ろうとしているんだ。事前にこういう作品にしようとか、こう撮ろうといった計画も一切ない。通常のドキュメンタリーは多くの情報を詰め込んでいくけれど、僕の映画作りは引き算。間口を広げるのではなく狭くして、いかに伝えたいことの焦点を絞って作るかを考えている。エッセイのような説明的な映画ではなく、情報よりも感情で、詩のような映画を作っていきたい──それが僕の挑戦なんだ。
あなたの話をもっと聞かせて
──ドキュメンタリー制作は、対象との距離感が大切なのだろうと思います。相手の信頼を得るために、監督はどのような作法で取材対象との距離を縮めていくのですか?
特に意識しているわけではないけれど、好奇心を持って相手の言葉を聞くことが大切だと思う。僕はいろいろな人たちが語るストーリーに耳を傾けるのが好きなんだ。
なぜ“ストーリー”に惹かれているのかわからないけれど……恋に落ちる時があるだろう?映画作りも同じで、もっと知りたい、もっと聞かせてほしい、という姿勢で話を聞くことで信頼関係が生まれる。そこがスタート地点なんだ。
お互いを尊敬し合うことも、同じように大切だ。カメラを回している時は常にそのことを意識している。相手の内なる世界に近づくためには、相手が僕に心を開いてくれる必要がある。だから、決して相手を裏切るようなことがあってはならないんだ。