(第14回)阿久悠の履歴書5--上村一夫とビートルズとの出逢い

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●企画書の書ける作詞家・阿久悠

 放送作家として自立しかけていた阿久悠は、67年のある日、いきなり徹夜で書かされたという逸話のある『朝まで待てない』を皮切りに、本格的な作詞家稼業を開始する。
 70年代まで生き残った、最後のGSザ・モッブスの初期のヒット曲である。

 GSとの最初の接点はそれより先、まだ広告代理店の社員だった65年、二足のワラジで取りかかった、「世界へ飛び出せ! ニュー・エレキ・サウンド」というテレビ番組だった。
 後のホリ・プロダクション社長・堀威夫、田辺エージェンシー社長で、当時はザ・スパイダースのリーダーだった田辺昭知ら、錚々たるメンバーがスタッフに加わっていた。

 阿久悠は番組企画書を書いて、これをなんとか通した。
 コンテストの優勝者に、ロンドンでのレコーディングという特典のつく新番組の志は、「トウキョウ・サウンドで世界を制する」だったが、無論そうはならなかった。
 リバプール・サウンドの向こうを張った日本のGSは、70年代前半までに、ことごとく消滅するのである。

 ただ、そこで起きた不可逆の「地殻変動」に、阿久悠が立ち会っていたことが重要なのである。「その時ぼくが気合いを入れて作った企画書は、歴史に残ると自賛している」(『夢を食った男たち』)と彼は語る。

 企画書の書ける作詞家、それが阿久悠だったのだ。

●「日記」は企画力の源泉

 歌謡詞とは厳然たる商品である。
 その市場性を保証するのは、作詞者自身の社会的視野に裏付けられた、企画者のスペキュレーション(「思索」と「投機」)に尽きるのである。

 80年代の初めから、最晩年まで26年間にわたって書き継がれた「日記」は、衰えを知らぬその企画力の源泉でもあった。

 1日の出来事を日記帳の1ページに収めるために、彼は「一人編集会議」と称する情報整理を連日連夜実践したのだ。
 それは、商品としての歌謡詞を、いつでも書ける状態に保つための鍛錬、孤独な"地下室の作業"にも似ていた。

 企画なきスローガンの最大の犠牲者でもあった昭和の戦争の子は、そのようにして70歳になるまで、大衆歌謡というジャンルで、しぶとく闘い続けたのだ。
高澤秀次(たかざわ・しゅうじ)
1952年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。文芸評論家
著書に『吉本隆明1945-2007』(インスクリプト)、『評伝中上健次』 (集英社)、『江藤淳-神話からの覚醒』(筑摩書房)、『戦後日本の 論点-山本七平の見た日本』(ちくま新書)など。『現代小説の方法』 (作品社)ほか中上健次に関する編著多数。 幻の処女作は『ビートたけしの過激発想の構造』(絶版)。
門弟3人、カラオケ持ち歌300曲が自慢のアンチ・ヒップホップ派の歌謡曲ファン。
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