ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ 「平等」も「人権」も、次善の策にすぎない

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さて、いつもヨーロッパに着いた途端に感じるのは、人々が身につけているある種の攻撃性とそれに対する自然な防御姿勢です。厚手のコートに顔をうずめて黙々と歩く人々の厳しい顔つきからは、「他人にだまされまい」という決意のようなものを感じる。

祖国で膨大な数の被害者を出す「振り込め詐欺」が成立する余地もないようです。これを、ことさら哲学的(?)に言い直すと、みな人生という過酷なニヒリズムに必死に耐えているという感じであって、わが同胞たちの「穏やかで無防備な」顔つきとはまるで違うと言っていいでしょう。

そして、私にとって手を叩きたくなるほどの「快挙」は、飛行機を降りた瞬間に、ほぼ完全な「無音地帯」が広がっていること。あの「エスカレーターにお乗りの際は……」とか「~にご注意ください」「~をお願いします」というキンキラ声の管理放送は皆無です。

空港の係員も店員も一般人も、さっき飛び立った祖国を基準にすると、おそろしく「粗野」であり「粗暴」であって(私はそれが好きなのですが)、祖国ではうんざりするほど繁茂している「愛想のよさ」と「奥ゆかしさ」が完全に消滅しています。

ウィーンに着いたのは、まさにベルリンのクリスマス市にトラックが突っ込んだ事件の直後だったので、空港の旅券検査も手荷物検査もまさに「だまされまい」という気迫に満ちた峻厳(しゅんげん)なものでした。特に中近東の人々の旅券審査は20分余りも続き、手荷物検査の際にゲートをくぐって赤ランプがついた10歳の男の子の身体検査までする。ヨーロッパに来る度に私が感じる言葉をあらためて使いますと、「容赦のない社会」だということです。

「平等」も「平和主義」も、次善策に過ぎない

ここでこの連載の本題に入りますと、今更ながらヨーロッパの「正義」とか「道徳」はこういう「容赦のない社会」から生まれたものだ、という実感が襲ってくる。社会契約とは、けっして理想的原理ではなく、「自然状態」に任せると社会が全滅してしまうというおそれを背景にし、みな不満を抱いたまま合意した「次善の策」であることがわかってくるのです。

ですから、いざとなったらそこから「脱しよう」という抵抗権をつねに包含している(ホッブズに顕著に見られる)。こうしたネガティブな根拠に触れずに、わが国では、これを人間の理想的原理と教えるから、混乱が生ずるのです。

人間の平等も基本的人権も平和主義も、単なる「次善策」にすぎないのであり、あえて言えば、人類がその恐るべき凶暴性を爆発させないために仕組んだフィクションなのであって、それ自体として「尊い」ものではない。

このあたりのことは一流の哲学者はよく見ていて、たとえば、カントとニーチェは、印象的には水と油のようですが、こうした社会の原理に対する懐疑的=否定的態度においてはさして違いがない。ニーチェが絶叫調でルソー的な「人間の尊厳主義」の欺瞞性を攻撃したことは見やすいので割愛するとして、カントもこの欺瞞的原理に同じくらいの嫌悪感を示している。

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