ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ

「平等」も「人権」も、次善の策にすぎない

もちろん、この区別は個々人が自分で確かめうるものでも、心理学(科学)の対象でもなく、ただカントが「こうだ」と考えたことにすぎないのですが――いいでしょうか、ここを強調したいのですが――だからこそ「正しい」のです。

カントの眼はひたすら、「社会的正義」と「道徳的善さ」とのあいだに分け入り、両者を切り裂き、人間にとって最も大切な価値は道徳的善さであって、社会的正義ではないことを力説する。そして、社会的正義という名のもとに道徳的善さを実現しているかのように思い込む転倒を「根本悪」と呼んで糾弾する。この転倒は、殺人より、強姦より、放火より、窃盗より、悪いのです。どうでしょうか? ずいぶん変わった倫理観ではないですか?

誰もが「社会的(法的)正義」を盲信している

しかし、私はこのカントの考えに完全に同意しています。実のところ、私がカント倫理学に40年以上もしがみついてきた理由はここにあります。そして、同時にこうした観点こそ、現代社会において最も欠けているように思われる。誰も彼もが社会的(法的)正義を妄信していて、このレベルでしか「善さ」に対処しようとしない。そして、外形的な正義を実現することに全力を尽くす。社会的(法的)正義を実現すれば、もうそれだけで人間としての道徳的義務を果たしたと思い込んでいる。

特に、こうした傾向は組織(官庁、企業、病院、学校)において避けがたく、カントは「人間が2人集まれば悪が始まる」と言っています。本連載でも、この風潮が典型的に現われた事件として「舛添問題」と、それに続く「豊洲移転問題」をやや立ち入って取り上げてみたのであって、こうした転倒、すなわち「根本悪」は組織のあるところにくまなくはびこっている。

組織が生きていくうえでは先の転倒も仕方ない、という反論は成り立たない。組織が、全力で社会的正義の実現を目指しながら、それを「根本悪」と認め、せめて「次善の策」あるいは「フィクション」とするのであれば健全ですが、そういう組織は皆無であって、社会的正義を道徳的善さと同視して思考をストップさせている。カントによれば、まさにそうした態度こそが「根本悪」なのです。

現代日本では、誰も彼も社会的(法的)正義が犯されたら大騒ぎをするが、社会的正義に対する批判的観点=懐疑的態度はまったく見当たらない。よって、次回からもしつこくこの問題を掘り下げていこうと思います。

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