関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか? 教科書が教えない「小早川秀秋」以外の真犯人
そもそも吉川広家の西軍参加は、自らの意思でなく「行きがかり上、仕方なく」でした。
当初、彼は家康の「上杉討伐」に合流しようと出陣するところでした。ところが、石田三成が突如挙兵し、本家の毛利輝元が総大将に担がれたため、同族の吉川広家も仕方なく西軍の一員となったのです。
しかし、「西軍に勝ち目はない」とみていた広家は、親しかった東軍の武将、黒田長政を通じて家康に内応、それと引き換えに「毛利家の存続」を家康に約束させていました。この黒田長政は、小早川秀秋にもたびたび内応の約束を促していました。
関ヶ原の裏切りが「明治維新」につながった
明治時代初期、陸軍大学校の教官に招かれて来日したドイツの軍人メッケル少佐は、関ヶ原での両軍の布陣を見るや、「西軍の勝ち」と即座に答えたそうです。
関ヶ原開戦までの石田三成による采配は見事で、戦いが彼の予定どおりに、つまり小早川秀秋の裏切りがなければ、関ヶ原ではほぼ間違いなく西軍の勝利となっていたでしょう。
もし歴史が「西軍の勝利」になっていれば、大坂で豊臣秀頼を中心とした政治が行われたか、はたまた再び戦乱の世に逆戻りしたことも考えられます。
いずれにしても、家康による1603年の「江戸幕府」開府はなかったことでしょう。「現在の東京を中心とした日本の繁栄は、関ヶ原に始まった」ともいえるかもしれません。
現実の歴史では、関ヶ原の敗戦後、毛利家は120万余石から36万9000石という大幅な減封処分を受けて屈辱を強いられるものの、長州藩として家名は保ちました。毛利家ではこの屈辱を代々伝えて決して忘れず、その執念が250年の時を経て、倒幕の中心となって日本の歴史を大きく動かす原動力になります。
いわば、関ヶ原の戦いでの吉川広家の「裏切り」が、「明治維新」という実を結んだともいえるのです。
関ヶ原の勝敗が東京の繁栄に結びつき、吉川広家の裏切りが明治維新のエネルギーになる──歴史はこうして現代につながっています。そう、歴史を学ぶことは、現代を学ぶことにほかならないのです。
それと同時に、関ヶ原の戦いで「誰がなぜ、どう裏切ったのか」を見ることは、たんに歴史を学ぶ以上に、「人間心理」を勉強する格好の材料になると私は思います。
日本史には、ビジネスパーソンが避けて通れない「出世」や「社内抗争」の参考になる教訓の数々が詰まっています。ぜひ日本史を学び直すことで、「知識や教養」に加えて「社会人としての処世術」もあわせて習得してください。
人間の本質は、時代を経ても、そう大きく変わるものではないからです。
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