関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか? 教科書が教えない「小早川秀秋」以外の真犯人
Q9.「真の裏切り者」ともいえる人物は誰ですか?
毛利輝元(もうり てるもと)の家臣「吉川広家(きっかわ ひろいえ)」です。
彼の父、吉川元春は毛利元就(もとなり)の次男で、吉川家の養子となり家督を継いだため、両家は同族関係にありました。吉川広家は一族の中で年長かつ実力者でもあったため、当時「実質的」に毛利家を取りまとめる「中心人物」でした。
知られざる「吉川広家の3つの動き」
Q10.吉川広家は、関ヶ原の戦場で、具体的にどんな働きをしたのですか?
「不利な布陣に苦戦する東軍」を傍観しながらも、これを攻撃しようとする西軍の行動を阻止しました。
家康の背後にあたる高地(南宮山)には、西軍約2万9000が布陣しており、家康はつねに後方を脅かされる形で戦わなくてはなりませんでした。その絶好の位置で戦いの様子をじっと見守り続けていたひとりが、吉川広家でした。
広家は東軍の苦戦を目の当たりにしながらも、このチャンスに軍を動かすことなく、高地にいた同じ西軍の動きを完全に封じてしまったのです。
三成は合戦の途中で何度も広家に「督戦」を促す使者を派遣しますが、「いま弁当の準備をしている」と言ったという「吉川の空弁当」のエピソードも残っています。
この結果が家康本陣のさらなる「前進」につながり、ついには「東軍有利!」と思った小早川秀秋に「裏切り」を決断させたわけです。
ほかにも広家は、西軍の総大将にかつがれていた毛利輝元を関ヶ原に出陣させずに大坂城に留め置くなど、「明らかな西軍への妨害工作」も行いました。
Q11.つまり、吉川広家が、裏切りを誘発した「真犯人」ともいえると?
そういうことです。吉川広家の働きをまとめると、以下の3つになります。
②関ヶ原で家康の背後の西軍2万9000の軍勢を「ブロック」して、東軍を優勢に導いた
③東軍優勢の状況をつくり出したことで、結果として小早川秀秋の裏切りを誘発させた
吉川広家の工作によって、最も西軍に頼りとされた3万とも言われる毛利輝元本隊の軍勢は決戦に来援することなく、輝元の子・毛利秀元(1万6000)も家康の背後という絶好の位置に布陣しながらも広家に進軍を阻まれ、傍観を余儀なくされました。
こうした一連の動向は、同族である小早川秀秋(1万6000)の裏切りを決断させた要因となったことはまず間違いありません。
Q12.では、吉川広家は「なぜ」裏切ったのですか?
それには「こんな事情」があります。
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