関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか? 教科書が教えない「小早川秀秋」以外の真犯人

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Q5.「西軍を裏切った小早川秀秋」はどんな人物ですか?

豊臣秀吉の妻である「お禰(おね)」の兄、木下家定の五男です。

幼時に子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり、一時は周囲から後継者とも見られていました。

しかし、秀吉に実子、秀頼が誕生したため、毛利家と同族関係にある名門、小早川家の養子となり、その家督を継ぎました。関ヶ原の戦い当時、彼はまだ19歳の青年でした。

たしかに小早川秀秋は裏切ったが…

Q6. 小早川秀秋は「なぜ」裏切ったのですか?

小早川秀秋は「家康にも恩があった」からです。

小早川家の当主となった秀秋は、秀吉の晩年、筑前・筑後(福岡県)33万石から越前(福井県)12万石へと転封されて失意に暮れます。これを救ったのが家康でした。秀吉の死後、家康のとりなしによって彼は再び筑前・筑後の旧領を取り戻したのです。

その「恩」があったために、小早川秀秋の心は当初から「東軍」にあったといわれます。しかし、彼はギリギリまで裏切りを「躊躇」します。

Q7. なぜ「西軍への裏切り」を躊躇したのですか?

「石田三成が提示した好条件に心が揺れ動いた」からです。

当時、豊臣秀頼はまだ幼く、石田三成は彼が成長するまでの期間、小早川秀秋に「関白」就任を約束しました。豊臣秀吉の縁者でありながら、秀頼の誕生後は不遇だった秀秋には、「非常に魅力的な条件」に感じられたことでしょう。

Q8. では「最終的に裏切りを決断した理由」は?

「戦いの趨勢が東軍に有利と見た」からでしょう。

家康は戦いの途中、自らの本陣をより前線に近い場所へと前進させます。これを見た小早川秀秋が、戦局は「東軍優勢」と判断し、「西軍への裏切り」を決断したものと考えられます。

躊躇する小早川秀秋の裏切りを促すために、家康が鉄砲を打ち込んだという「家康の聞き鉄砲」はあくまで俗説です。

ところで、この「東軍優勢」の状況をつくるのに重要な働きをした人物がいました。ある意味では、「真の裏切り者」ともいえる人物です。

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