日本人が知らない「自由」の意外な正体とは? 資本主義社会が抱える不都合な真実
猪木:「自由は不自由の際に生ず」――自由という概念は、法などの制約があるからこそ意味を持つことができるんです。
宇野:制度や秩序などの「枠」の中で、はじめて人間は自由を享受できる。でも、アナーキストの人たちはこれを嫌う。「俺たちが求めているのは、無制約の自由なんだ」って。たしかに惹かれるところもありますが、ある意味で「若い」自由観でしょう。
猪木:それでは自由は守れないし、必ず侵されてしまう。善と悪、自由と不自由といった二元論は、たしかに分かりやすく魅力的ですが、二つの概念の立体的な構造を考えないと、一種の思考停止を招いてしまうようなところがあります。
宇野:その点に関連づけて言えば、面白いことにフランスの自然科学者や数学者には、聖職者が目立つ。アメリカでは、進化論に代表される自然科学と、キリスト教信仰は二項対立的に捉えられますが、フランスではノーベル賞を取った神父も何人かいます。神の作った秩序には一定の合理性があるはず。ならば、限られた知しか持たない人間でも、その合理性の一部を解明することができるだろうと考える。必ずしも科学と宗教は対立しないのです。
猪木:本の後書きにも書きましたが、私は友人に誘われてユダヤ教の「過越し祭」の典礼に参加したことがあります。数理的、合理的な思考を徹底するユダヤ人が、このような「非合理」な典礼に何時間も没入できるということはどういうことなのか不思議に思いました。
宇野:合理主義を徹底すると同時に、合理性を超越した世界に信を置く。この二つを焦点として、思考に楕円的な構造を持たせることにより、人間は文明を発達させてきた。合理主義だけでも、逆に非合理なものだけでも、人間の精神は失速してしまう。このことは本書の非常に大きなテーマの一つになっていますね。
「楕円構造」の中の自由
宇野:中世ヨーロッパの自由観についても随分お書きになっていますね。本書で紹介されていた堀米庸三の『正統と異端』は、私も大好きな本です。
猪木:非常に論理的で、かつ含みのある、素晴らしい本です。
宇野:キリスト教は、原罪を負った人間の自力救済を徹底的に否定し、神の恩寵によってのみ人間は救われうると強調する宗教です。では、何もしなくていいのかと言えば、そうでもない。人間は有限で無力な存在ながらも、神の真理と栄光を目指して、頑張って進んでいくことができるとも言う。
猪木:しかし、それが行き過ぎると異端になってしまう。『正統と異端』では、当初異端視されていたアシジのフランシスコ会が、どのような経緯を経て、正統のカトリック教会に組み込まれていくかが描かれています。キリスト教の強みは、絶えず異端が出てくることによって正統の緊張感が保たれ、またその異端を取り込むことによって正統が強化されていくところにある。もちろん、そこには限界もあるのですが……。
宇野:自由という観点から見れば、神の真理に向かって自らの自由意志で歩む人間は、過ちを犯し罪人へと堕落するかもしれないけれど、だからこそ人間に生きる意味を与えてくれる。中世ヨーロッパの自由意志論は、このような正統と異端の緊張関係を軸に展開されています。本書では中世の大神学者トマス・アクィナスにも言及されていますね。