私が開いた悟り——ガンジス川で形を失う瞬間に
そんな悩みから救いを求め、今から2600年前、御釈迦様は悟りを開くために旅立たれたわけであるが、その2600年後、シンガポールはマリーナベイ・エリアから、一人の太っちょコラムニストがガンジス川で涅槃に入った。
私はある日、ガンジス川のほとり、マクニカガートで燃え行く遺体を見ていた。燃え上がる炎、薪を運ぶ火葬場のおじさん、鈴を打ち鳴らし祈る人々。
目の前に積み上げられた薪の上で、約3時間をかけて一人のおじさんが形を失っていく。
燃え盛る炎の中、男性の胸が燃えているとき、私はこの人の胸に何が残っているだろうと考えた。そして数十年後、同じく自分が形を失い灰になる瞬間、最後に何を思いたいかを想像したのである。
その瞬間、頭をよぎったのは、やはり悔いなく人生を生きた充実感、自分ならではの貢献を思う存分果たした達成感、そして愛する人に献身し、愛された幸福感といった、極めて基本的な事柄である。
エクセルの打ち込みを間違えなかった達成感、2メガバイトのモデルを作り上げた充実感、ボーナスレビューで上司に愛された幸福感よりもっと重要なものが、短い人生には確かに存在する。
この最終的な瞬間に比べ、日々の選択がどんな位置づけなのか、毎日の意義について考えることが肝心である。
世界には長期的な生き方への納得感を、“神”ないし“選択肢の不在”から与えられ、惑わず生きられる人たちがいる。
しかし無宗教なうえ、選択肢の豊富な資本主義エリートたちは、長期的な人生哲学を自ら形成しなければ、短期的な“人生の売買判断”に失敗を繰り返すのだ。
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