「歌舞伎座」の真実をどれだけ知っていますか 大人なら知っておきたい蘊蓄100章

✎ 1〜 ✎ 30 ✎ 31 ✎ 32 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

41. しかし改良会の中心メンバーであった福地源一郎は大劇場建設を諦めず、木挽町に「歌舞伎座」を誕生させる

42. 高原弘造が設計した第一期歌舞伎座は外観は洋風だが木造三階建ての用材はすべて檜。1700人を収容できた

43. それまで最大の劇場は新富座でその舞台間口は8間あったが、歌舞伎座の舞台は13間とさらに大きく広がった

桟敷席。写真は熊本県山鹿市の八千代座(写真:k_river / PIXTA)

44. 照明には電灯を使用し、桟敷席は洋装客を配慮した上げ蓋式で、これを取ると腰掛けられる工夫がされていた

45. 一方、新富座の守田は中村・市村・千歳座と四座同盟を組んで対抗。役者を他劇場に出演させないよう画策した

46. そのため歌舞伎座は劇場完成後も演目が立てられず、折れた福地は四座側に巨額の見舞金を払い手打ちとした

47. 1889年11月21日ついに歌舞伎座が開場。のちに守田も経営に招かれ團十郎・菊五郎・左団次とともに活躍した

48. 1896年には歌舞伎座が株式組織化。1911年には新開場した帝国劇場に対抗し、和風の外観に改修した

49. この第二期となる歌舞伎座は志水正太郎が設計。福地は手を引いていたがこの改修工事の間に内紛が起きる

50. その結果、歌舞伎座は1913年(大正2年)関西から東京進出を狙っていた松竹・大谷竹次郎に経営を譲渡

関東大震災から大空襲

51. しかし1921年10月漏電によって歌舞伎座は焼失し、二長町の市村座を借りて興行を続け再建を目指した

52. ところが建物躯体が完成した1923年に関東大震災が起こり内装用の檜材が全焼。歌舞伎座再建工事は中断する

53. すでに1893年中村座は失火で焼失し廃座となっていたが、この関東大震災によって新富座・市村座も焼失

54. その結果、新富座・市村座も廃座となり「江戸三座(猿楽町三座)」はすべて消えることとなった

55. 1925年1月、第三期となる歌舞伎座が開場。舞台間口は15間とさらに広がり、豪華な劇場は新名所となった

56. この岡田信一郎の設計による新劇場は、瓦葺の破風屋根が目立つ桃山様式の外観で鉄筋コンクリート造り

57. 定員は約2500人で客席の多くがイス席となり、地下一階・地上四階建てであった

58. 1931年(昭和6年)歌舞伎座㈱は明治座・新富座・松竹と合併しあらたに松竹興行㈱となる

59. しかし第二次世界大戦の戦況が厳しくなり興行は中止。1945年の東京大空襲で歌舞伎座は焼け落ちてしまう

60. 歌舞伎座は廃墟の状態であったが1949年に㈱歌舞伎座が設立。松竹から建物を譲り受けると改修工事を実施した

次ページGHQマッカーサーの副官、バワーズの尽力で
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事