21. その後、浅草聖天町は江戸における芝居小屋の創始者・猿若勘三郎にちなみ「猿若町」と呼ばれた
22. しかし1867年(慶応3年)に幕府が崩壊すると江戸開城や上野戦争などの混乱が続き猿若町への客足も遠のく
23. 明治に入り西洋演劇の情報が伝わると、歌舞伎の筋立てや前近代的な興行の慣習に批判の声が上がりはじめた
24. 1868年(明治元年)9月末、明治新政府は突然猿若町の芝居小屋に対し他所へ移転せよとの勧告を出す
25. なかなか動きださない座元たちに業をにやした新政府は府令によって東京の劇場を十座に限定してしまう
26. 1872年には東京府庁に歌舞伎関係者を呼び、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的筋書きにするよう命令
27. 時流を察した十二代目守田勘弥は守田座(旧森田座)を新富町に移転すると、1875年「新富座」と改称した
28. 翌76年新富座は類焼するが、座元・十二代目守田勘弥は莫大な借金をもろともせずさらなる新劇場建設を決意
29. 1878年6月には前例のない西洋式の大劇場「新富座」(京橋税務署・東京都中央都税事務所)をオープンした
30. これは当時最大の興行施設で、ガス灯による照明を設置。それまでできなかった夜間上演も可能にした
そうそうたる財界人の応援を受けるように
31. 開場式には軍楽隊が演奏するなか守田や九代目市川團十郎をはじめとする歌舞伎役者たちが燕尾服で臨んだ
32. 1882年には猿若町の中村座が失火で全焼し、1884年浅草西鳥越町に新劇場を建設。「猿若座」と改称した
33. 市村座は最後まで猿若町に残っていたが1892年下谷二長町(台東1丁目)に三階建ての新劇場を建設し移転する
34. 座元たちは努力を重ねるが、当時の政治家、経済人、文学者らは文明国の上流階級にふさわしい演劇を主張
35. 彼らは第一次伊藤内閣のもと、末松謙澄、渋沢栄一、外山正一らを中心とした「演劇改良会」を結成する
36. 1887年には有力な後援者であった外務大臣・井上馨の邸宅に仮設舞台を設け、明治天皇の天覧歌舞伎を実現
37. 新富座で評判を呼んでいた九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次を招き『勧進帳』を上演した
38. この追い風を受け演劇改良会は法人を設立。ジャーナリスト福地源一郎が定款を書き多くの財界人が賛同した
39. 渋沢栄一、益田孝、岩崎弥太郎などそうそうたる財界人の応援を受け20万円の建築費で大劇場の建設を計画
40. ところが内紛がおこり、最大の後援者である井上馨の失脚も災いして演劇改良会の活動は中途半端に終わる
無料会員登録はこちら
ログインはこちら