来年は「ある」のか…哲学者がこだわる難問 深く問わないことで、世間はうまく流れるが

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とはいえ、世間には、1000人に1人くらいは(あるいはもっと少ない?)、こうしたことが気になって仕方がない困った人種がいる。朝から晩まで「あるとは何か?」「よいとは何か?」が気になって仕方がない。昨日が「あった」こと、明日が「あるだろう」ことが不思議で、いや不気味でたまらない人たちです。

しかし、ソクラテスの時代から現代に至るまで、これを考えることが許されるところは哲学以外にはありません。誰でも知っているように、朝から晩まで、テレビを見続けても、ありとあらゆる新聞を読んでも、この問題はまず取り上げられません。

そして、ありとあらゆる学者や評論家や法律家や科学者は、「憲法改正はよいことか?」とか「このままでいくと今世紀の終わりには、5度気温が上がる」とか、何の違和感もないかのように喋りつづける。単に「無知な大衆」が哲学を毛嫌いするばかりではなく、一握りの哲学者(あるいは以上の意味で哲学的な人)以外のすべての知識人は、「ある」や「よい」にひっかからないのです。

「あたりまえ」という名の世間の風からの避難所

彼らの中には、ここに大問題が控えていることを「頭では」知っている者もいるでしょう。しかし、「切実な問題」ではないのであり、だから、その大問題を無視してシャーシャーと喋ることができるのです。

これらこそ切実な問題だとみなすものが哲学者であり、そうでなければ、いかにほかのところで大研究をしても(ノーベル賞を取っても、文化勲章を取っても)哲学者ではありません。というわけで、哲学塾では、まさにソクラテスの時代からの正統性を受け継ぎ、こうした問題のみにかかわる講義をしています。

ですから、こうした問題に興味のない人には、いかに知的好奇心があっても、哲学塾の講義は難解かつ退屈なものでしょう。そして、こうした問題にひっかかっている人には、とても容易でかつ有益でしょう。

よって、「哲学塾」は、いわば「あたりまえ」という名の世間の冷たい風からの避難所であり、(前に言いましたが)世間では通じないことが堂々とまかり通っている江戸時代の「遊里」のようなところです。

最後にあえて(内容ゼロの)世間語を使ってお口直しをしましょう。みなさん、今年はいろいろお世話になりました。よいお年をお迎えください! 来年もよろしくお願いします。

中島 義道 哲学者

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なかじま よしみち / Yoshimichi Nakajima

電気通信大学元教授・哲学塾カント主宰
1946年福岡県生まれ。77年東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了。83年ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了、哲学博士。専門は時間論、自我論。2009年電気通信大学電気通信学部人間コミュニケーション学科教授を退官。現在は「哲学塾 カント」を主宰し、延べ650人が参加した。著書は『働くことがイヤな人のための本』『私の嫌いな10の人びと』『人生に生きる価値はない』(以上、新潮文庫)など約60冊を数える。

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