というわけで、「新宿」や「冥王星」が「ある」と信じているのと同じく、ごく自然に、昨日起こったことのみならず、何千年も前の事象も「あった」という形で「ある」と信じ、明日に起こるだろうことも何千年後の事象も「あるだろう」という形で「ある」と信じて疑わない。
いいでしょうか? 「いまある」ことのほとんどを私は現に観察していないように、「あった」ことや「あるだろう」ことを私は現に観察していないにもかかわらず、客観世界に投げ込む。そして、同じように現に観察していない天国や地獄をそこから削り取るのです。これって、ずいぶん恣意的な気がしませんか?
もしかしたら、このすべては錯覚で、「いま」が「ある」だけかもしれないじゃないですか? 「あった」こと、「あるだろう」ことは、天国や地獄と同様に、単に「ない」だけかもしれないじゃないですか? そのほうがずっと(ここでは言いませんが)さまざまな哲学的難問に答えることができるし、少なくとも私の実感に沿っています。
なぜ「よい」は厄介な言葉なのか
さて、話を戻しましょう。私がここで言いたいのは、どちらが真理であるかではなく、こういう発想の片鱗(へんりん)ですら世間で語ることは許されないということです。この時期世間にあふれる「今年の出来事」や「来年の抱負」に対しては、前述のとおり「まったく『ない』ことを語っているなあ」と思っていますが、そう言ってはいけない。
あたかも「あった」ことや「あるだろう」ことが、「いまある」ことと並んでちゃんと「ある」かのようなふりをしていなければ、世間では異常人として排斥されるということです。
「よい」や「わるい」も同様です。世間では、これらの言葉の意味は自明とみなされていますが、――いまちょうどある講義(マッキーの『倫理学』)で扱っていますが――「よい」の意味を探求すると、そびえ立つ山のような難問が待ち構えています。
いいですか? よい物とは何か、ではなく、「よい」という言葉の意味とは何か、という問題ですよ。「よい」って「好きだ」とか「気に入っている」とは異なり、たしかに、主観的な好みではない。
たとえば、「『剣菱』は私の好みではないが、いいお酒だ」とか「彼は悪い奴だが、気に入っている」と言える。とはいえ、「この部屋は私にとってよいけれど、きみにとってはよくない」とも言えるわけですから、客観的というわけでもない。「よい」は、そのうちに客観的と主観的意味とを併せもった、かなり厄介な言葉なのです。
でも、世間って、こうしたことに気づきながらも、この意味を深く問わないことによって、うまく流れていくのですね。他人の使う「よい」や「悪い」にいちいちつっかかっていたら、やはり異常人として排斥されるでしょう。
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