来年は「ある」のか…哲学者がこだわる難問 深く問わないことで、世間はうまく流れるが

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死後の世界が「ない」のに対し、明日や来年が「ある」とされるのは、なぜなのでしょう?

いまやまさに年末であり、世間では今年起こった国内外の事件、今年の「流行語大賞」や、今年を表す「漢字1文字」、さらには来年のわが国の針路、景気予測……などの言説が跋扈(ばっこ)していて、ほんとうに非哲学的空気が充満している。

こんなときこそ、こうした哲学的思考とは無縁の、いや哲学を足蹴にするような言説の飛び交う世間から離れて、純粋な異次元空間たる「哲学空間」を確保することが必要だと痛感します。

そんな私は、テレビの特集で「今年の出来事」を見ているとき、あるいは政治家や有名人たちが「来年の抱負」を語るとき、「ああ、(天国や地獄と同じく)まったく『ない』ことを語っているのだなあ」と感じる。

「客観的世界」は、存在しているのか?

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私は、何を言いたいのか? 私の哲学的関心はずっと「存在と無」であり、これは、「私が存在しているのに、無になるとはどういうことか?」という問いに集約されますが、その背後には「(客観的)世界は果たして存在しているのか?」という問いがくすぶっている。

私が死ぬということは、存在する「客観的世界」の外へ、はじき出されることだという了解が漠然とあり、そこは「存在」の外、すなわち「無」なのだから、私は死ぬと「無」になるというわけです。これは、単なる図式ですが、真理を示す図式どころか、これほど安直でニセモノ臭い図式がありましょうか?

まず、「客観的世界」が「存在する」ということの意味がわからない。どうにか、常識をかき集めてわかったつもりになったとしても、「その外が無である」ということは、ほとんどまったく意味がわかりません。

どうも、この図式においては、「存在と無」が反対の事柄とみなされているようですが、――俊敏なヒュームが言うように――「存在」と「無」は反対の事柄ではなく、ただ「存在」という概念と「無」という概念が反対概念であるだけです。

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