つまり、たとえ「存在」とは何かがわかったとしても、ただちにその反対が「無」とも言えないのですから、死後私は「存在しない」と否定語で語ったとしても、何もわかったことにはならない。
しかも、「存在」すなわち「ある」とは――ハイデガーが神妙な問題にするほどのこともなく――、一方では、よく考えてみると何を意味しているのかまったくわからないのであり、しかし、他方で、「死後の世界はあるのか?」とか、「彼には才気がある」とか、「彼女の証言には矛盾がある」とか……そのつど的確に使えることも事実です。
その場合、「ある」とは、「いま・ここ」で私が現に体験していることを意味するというより、むしろそうではないことを意味していることのほうが多いことに気づかねばなりません。
「いま」私は笹塚の事務所にいますが、ちょっと離れたところに「新宿」という名の街が、「いま」見えも聞こえもしませんが、「ある」と信じている。いや、新宿どころか、地球の裏側も、太陽も、冥王星も、銀河系の外の星団も「ある」と信じている。わずかにも観察していないにもかかわらず、膨大な事物や出来事が「ある」と信じているのです。
「ある」と「ない」は、反対どころか似ている
「なぜ?」と聞かれると困ってしまうので、哲学者たちは「ある」とされる事柄は「可能的に知覚できる」とか「すべての他のあるものと整合的である」とかもっともらしい答えを持ってきますが、どうもウソ臭く、私は「なぜか知らないけれどある」と信じているだけです。同様に、(いまのところ)天国も地獄も神も悪魔も「ない」と信じているだけです。
「ある」と「ない」との区別がはっきりしているのは、言葉の上だけのことであって、私たちが住んでいるこの世界は、こうなってはいません。しかし、私たちは、どうも世界のいたるところに「ある」と「ない」の楔(くさび)を打ち込みたいのですね。
「男は女ではない、正常人は異常人ではない、先進国は発展途上国ではない」などと語って、自分で打ち込んだ楔があたかももともと世界に属しているかのようにみなしてしまうのですね。その結果、客観的世界は「ある」で充満していると思い込み、その「外」は微塵も「ない」のだ、と思い込んでしまう。
しかし、そうでしょうか? 「ある」と「ない」とは反対どころかとても似ているのです。このことを考えるのにいちばんいいモデルは時間でしょう。客観的世界のいかがわしさは、客観的時間のいかがわしさに連なっている。そして、だいたい客観的時間ほど、いかがわしいものはない。
過去は消えてまったくないはずなのに、「あった」という形で「ある」とみなし、ほとんど「現在」と同じくらい「ある」とみなす。未来もまったくないはずなのに、「あるだろう」という形で「ある」とみなし、ほとんど「現在」と同じくらい「ある」とみなす。
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