中級ドイツ語も私が教えていますが、これまで、ニーチェ、ショーペンハウアー、カント、ヘーゲル、ハイデガー、ヒルシュベルガーの哲学史、さらには、文学書として、ゲーテ、ヘッセ、トーマスマン、カフカ、さらにはギムナジウムの歴史の教科書や、旅行案内書、新聞などを読みました。みな、よくついてきてくれました。
先に述べたように、ドイツ語は大学での不幸な経験があるので、それを改良した私の授業が成果をあげていることは不思議でもないのですが、一方でラテン語の講義は、まったくの偶然から始まり、うまくいった例です。
私はウィーン大学でラテン語を学び、帰国後、朝日カルチャーセンターなどでそれを維持していたにすぎないのですが、哲学塾で5年ほど前に、ラテン語の導入部だけでもやってみようと思って開講したところ、30人も集まった。その後人数は減りましたが、それでも1年経っても15人くらいも残り、口をそろえて「おもしろい、おもしろい」と言う。
切っても切れない「哲学」と「言語」
これはまったく意外なことであり、ウィーン大学でもラテン語は「いやいややるもの」と相場が決まっていたし、その恐るべき文法の複雑さにみな悲鳴を上げていた。まして日本では、哲学科の学生でさえ、古典哲学の専門家以外にはマスターなどしない。相当学んだ学生でも動詞の変化を自由自在に空で言える人はまずいなくて、辞書片手にラテン語の文章をフーフー言いながらどうにか訳せるだけ、言葉の真の意味で「かじった」だけです。でも、塾では全部の変化を暗記させ、作文までさせました。
こういう仕方でこれまで4回教えましたが、1回目は全部終えるまでに1年半かかったのに、2回目は半年、3回目は3カ月、そして4回目は2カ月で終えることができました。初級文法のテキストの終わりの方には、デカルト、シーザー、ユークリッドなどが登場しますので、手を抜いているわけではありません。
そして、中級ラテン語は専門家を非常勤講師に雇って、現在デカルトの『精神指導の規則』とスピノザの『エチカ』を読んでいます。初級を終えるとすぐにこちらに接続できることは、言うまでもありません。現在、10人以上が中級を取っているのも不思議なことです。
哲学と語学は切っても切れない関係にあります。西洋哲学の要は「ロゴス」であり、それは言語なのですが、具体的には西洋の言語、さらに具体的には、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、英語なのであり、これら言語の具体的動きを襞(ひだ)に至るまでわかること(少なくともそれを目指すこと)が必要だと私は信じています。
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