これは、古い考えかもしれませんが、そしてたぶん大学の哲学科ではいまや少数の古典哲学専攻以外の学生は学んでいないでしょうが、それでも私はそう信じている。
この信念にはもう1つの信念が対応していて、哲学とは西洋哲学のことにほかならず、しかも、哲学の手段は言語だけなのであって、とすれば、その真理はその言語の「うち」にすべて表出されているはずだ、という信念です。
もっと干からびた、もっと古臭い「哲学塾」に
こうした考えに基づいて、最近は、哲学塾をもっと「古典化」しようと企てている。すなわち、この何でもすぐに役にたつこと、便利なこと、能率的なことが幅を利かせている世の中において、わが「哲学塾」をもっと役に立たない、もっと干からびた、もっと古臭い、もっと机上の空論にうつつを抜かす場所にしたくなってきた。
そういう魂胆もあって、デカルトやスピノザをラテン語で、プラトンをギリシャ語で読み続けているのですが、さらにセネカやキケロにも手を広げ、新しい先生のもとに、新プラトン主義の講義も開講しました。いずれキリスト教神学や、アウグスチヌス、トマスなども開講する予定です。
こうして、次第に私は――時代錯誤も甚だしいことに――「哲学塾」をかつての「ラテン語学校」のようなもの、そう、あのヘーゲル、シェリング、ヘルダーリンが学んだ「チュービンゲン神学校」のようなものにしたくなってきた。このせちがらい21世紀の日本において「神はあるのか?」「魂は永遠か?」あるいは「有徳とは何か?」「悪はあるのか?」という問いに、命を掛けて(?)かかずらわるのって、すばらしく時代と遊離していて、わくわくするほど知的好奇心をそそり、かつ自尊心をそそる活動だとは思いませんか?
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