"月100頭出荷"の希少な豚が松屋銀座に並ぶまで。3Kイメージを覆し「みやじ豚」を育てた4代目の経営思想
明治時代から養豚がさかんな、神奈川県藤沢市の打戻(うちもどり)。宮治さんは、小さな養豚農家の長男として生まれた。
総本家は400年続く農家で、戦後の高度経済成長時代、宮治さんの祖父が庭で豚を飼いはじめたのを機に、その後、父親である三代目・昌義さんが1960年代に養豚をはじめた。
藤沢の畑に囲まれたのどかな環境で、神社のお祭りでお囃子の太鼓を叩いたり。ときには、豚舎に遊びにいって、豚とたわむれたり。年子の弟とともに、のびのび過ごした少年時代。
その頃から、夢中になってのめり込んだのは“歴史もの”だった。テレビゲームの『三國志』や『信長の野望』から入り、吉川英治、司馬遼太郎などの歴史小説を読みあさった。そして、歴史に登場する英雄に憧れて、少年心に「男と生まれたからには天下を取らないと」「歴史に名を残す人間になる」という野望が芽生えていった。
やがてその思いは、「起業をする」「社長になる」という現代的な夢へと姿を変えていくが、この頃、農業はまだ選択肢にすらなかった。
学生時代を過ごした、慶應義塾大学のSFCがまたユニークだった。起業家を志す学生が多く、学生団体を立ち上げて勉強会を行ったり、起業家を招いてセミナーを開いたりと、精力的に活動する仲間が身近にいる環境だった。
この頃から、小さな学生団体の代表を務めたり、野球サークルのキャプテン、内定者グループワークのリーダーを任されたりと、気づけば人の集まりの中心にいることが増えていった。
自らが前に出て引っ張るというより、周囲に担がれて役割を引き受けるような立ち位置だったという。
父親の猛反対と、弟の帰郷
スターバックスでの閃きを機に実家の養豚を継ぐと決めたものの、父親と同じように生産だけを担うつもりはなかった。一般的に畜産農家の仕事は、生産して出荷して終わりだ。しかし、宮治さんはこれからの畜産農家はそれだけでは立ち行かないと考えていた。
「ここ30年ほど、農業は後継者不足だと言われていますが、後継者がやりたがらないような農業の仕組みそのものに問題があるのではないかと考えていました」
宮治さんが課題だと感じていたのは、大きく2つある。
1つ目は、農家に価格の決定権がないことだ。現在の仕組みでは、農家の生産した農作物を全量出荷し、買い取ってもらえる一方で、販売価格を自ら決めることができない。味や安全性といった価値が十分に評価されないまま、規格や市場相場によって価格が決まってしまう。


















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