「武田、北条といった名門がことごとく滅び…」桶狭間の戦い後の栄枯盛衰を見届けた意外な人物

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3 ✎ 4 ✎ 5
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
氏真は降伏して掛川城を開城。戦国大名としての今川家は事実上、滅亡することになった(写真:mughetto / PIXTA)
天下人となる兄を支えた弟の豊臣秀長にスポットライトをあてた、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。豊臣秀長は、豊臣政権内ではトップリーダーである秀吉と家臣たちとのよき橋渡しとなりながら、対外的には兄の代わりに有力な戦国大名たちと渡り合うこともあった。その働きぶりから「理想のナンバー2」とも評されるが、一体どんな人物だったのか。連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第5回も前回に引き続き、豊臣兄弟が仕えた織田信長が「桶狭間の戦い」で勝利したことで、衰退した今川家について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

「馬にも乗れない武将」の誤解

2万5000もの兵を率いる今川軍を、織田軍がわずか3000の兵で打ち破ったことで、織田信長はその名を轟かせることになった。後世に語り継がれる永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」である。

実際に兵力の差がどれほどあったかは諸説あるが、織田軍が大将の今川義元を討ち取ったことで、大番狂わせを起こしたことには違いない。その後、今川家が没落の一途をたどったことから、今川義元はどうしても過小評価されがちだ。

「馬にも乗れない武将」

尾張に攻め入ったとき、義元が馬ではなく輿に乗っていたことから、そんなふうに揶揄されることもある。だが、義元は、足利将軍家から塗輿に乗ってよいと許可されており、戦略的に公家大名としての権威を示していたと考えられる。

今川家がどれほどの権勢を誇っていたか。歴代当主に触れながら、前回の記事に書いたところ、大きな反響があった。

次ページ今川家を滅亡させた戦犯?
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事