「武田、北条といった名門がことごとく滅び…」桶狭間の戦い後の栄枯盛衰を見届けた意外な人物

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そこで今回は、今川家を滅亡させた戦犯の1人と批判されやすい今川義元と、そのあとを継いだ今川氏真について、解説を行う。

内政でも外政でも知恵を絞った今川義元

今川家・10代当主の今川氏輝が天文5(1536)年、北条家での歌会に参加すると、小田原に1カ月ほど滞在していたが、帰国直後に突然、死去してしまう。23歳の若さで当主が突然死したことで、氏輝の弟にあたる義元が後を継ぐことになった。

義元は家督継承にあたって、庶兄である花蔵殿と「花蔵の乱」に勝利。その勝利の裏には、義元を3歳のときから教育する軍師、雪斎の存在があった。

義元が当主になってからも、雪斎はそばで支え続けた。天文17(1548)年の三河の小豆坂合戦では、織田信秀の軍を撃破するという活躍を見せている。

この勝利によって、三河松平氏を隷属させ、今川家は竹千代を人質として預かる。この竹千代がのちの徳川家康で、その教育係も雪斎が務めた。

9代当主の今川氏親には北条早雲、10代当主の今川氏輝には寿桂尼と、その都度、強大なサポートが欠かせなかったように、義元には雪斎という頼れる右腕がいた。組織のリーダーには、名補佐役が欠かせないことがよくわかるだろう。

それと同時に、いくら有能な右腕がいたとしても、それを生かすも殺すもまたリーダーの手腕次第だ。義元は花蔵の乱に勝利したあと、「家中」、つまり、家臣団を削減して再編させ、雪斎とのラインを強化。人材の適正に応じた組織の改編もまた新リーダーが担う大きな役割だが、義元はそれをきちんと果たしていた。

また、内政については、父の氏親が制定した「今川仮名目録」を改訂して「仮名目録追加」を定めた。さらに、検地によって領内・家臣の実態把握に乗り出している。

さらに、義元は対外的にも大きな仕事をした。それは、武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意のもとに結ばれた「甲相駿三国同盟」の締結だ。

天文21(1552)年には今川と武田、天文22(1553)年には武田と北条、天文23(1554)年には北条と今川の婚姻が成立し、同盟が完成することになった。

だが、それはただラッキーで転がってきたわけではない。義元は当主になって早々に、実に大胆な行動に出ている。自分が家督を継承するのに協力をしてくれた北条家と距離を置き、武田家に急接近したのである。

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