奨学金576万円を借り、バイクローンに手を出し、バイトはしない…名門大学に進んだ男性が語る「僕が多重債務者になるまで」

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「イジメも『キモいから』という理不尽な理由でしたね。ただ、父は当時まだ物珍しかったIT系の事業を興すため、東京で出会った母を連れて地元に戻ったので、『異質な家族』だったという自覚はあります。まだ小学校では英語学習が始まっていないのに、僕たち兄弟は車で30分かけて、少し都会にある英会話塾に通わせてくれていましたしね」

大人になって父親と話したとき、長年地元に住む高齢者から「地に足のついていない仕事をしている」という誹(そし)りを受けたこともあったと聞かされた。そのため、父親は自衛隊への入隊を勧めたのだろう。

関根さん一家に対する理解者は少なく、歯医者や総合病院の医者など、「ひとつ上の階級」の子どもたちとは仲良くできた。

母親から教えてもらった、奨学金の存在

イジメは激しくなり、学校に行けない日も続いた。しかし、関根さんは勉強することだけはやめなかった。そして、高校は英会話塾のある8駅離れた県内でも1、2を争う進学校に入学した。

「今考えると、僕が住んでいたのはかなり貧しい地域でした。『下のきょうだいが進学を希望しているから、俺は高校卒業したら働く』という友達も一定数いて、商業高校や工業高校に進学していました。『下のきょうだいの進学』といっても大学ではなく、近隣県の美容専門学校ですよ。でも、家族の中で話し合いがあって、将来を狭める選択肢を高校進学時点ですでに決めている人は多かったです」

小学校も中学校も、関根さんが卒業して数年で廃校が決まった。そこから抜け出して都会に出た関根さんは、地元の友達がほとんどいない進学校で勉強に励んだ。

目指していたのは国立大学。しかし、父親からは「大学だけがすべてではない」と、理解を得られなかった。そんなときに、母親から奨学金の存在を教えてもらった。

「母は当時の日本育英会から奨学金を借りて、東京の私立大学に行って悠々自適な生活を送ったあげく、三分の一も返さずに『逃れられた』そうです。そのため、『奨学金を借りても返すのは苦労ではない。自分の行きたい道があるなら、奨学金を借りて夢を叶えるといいよ』と、なんだか屈折した助言をもらいました」

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