――次に移るという判断は、何を基準にしていたんですか。
いちばんは、アンケートです。アンケートの順位が落ちてきたり、雑誌のカラーや傾向が変わってきたりすると、「もう自分には合わなくなってきたな」と。そういうときには無理してしがみつかず、次を考え始める。
もちろん、恩義は感じているし、動くのが怖い部分もありました。でも、時代も読者も自分も変化し続けるわけですから、動かずにいてますます息苦しくなったり、腐っていったりするほうが怖いなと。
時代って、この40年間でものすごく変化していますよね。デビュー直後はバブルの名残もあって、取材の経費とかもたくさん使えて、1泊のロケでも「20万(円)くらい使っちゃいました」とか普通にありましたよ。
――20年前の女性誌もそうでした(笑)。
それから、長く続けてこられたもう1つ理由は、最初から今に至るまで、「すごく売れよう」なんて思っていなかったのもあるのかも。漫画は大好きですが、あまり欲はかかず、コツコツと目の前の原稿に取り組んで、原稿料をいただいて、生活していければいいという思いは変わっていないです。
暗黒期に生まれた"あの"作品
――10代からコツコツと描き続けて、『レピッシュ!』『プレイガールK』などのヒット作にも恵まれたものの、30代は「迷走していた」と公言されています。
今思えば、暗黒期でしたね。『プレイガールK』の次の作品『東京BABYゲーム』の終盤あたりから、調子が崩れていったんです。
“もっと良くしたい、おもしろくしたい”と思うほど、どこに正解があるのかわからなくなって。迷走しているうちに、気づけば作品ごとにテンションもテイストもバラバラになっていました。なかなか抜けられず、5~6年間くらいは完全に迷走してました(笑)。
――なかなか抜け出せなかったのですね。
「たくさん描いたら、どれか当たるかな」と思って連載を増やしたんですけど、結局、絵が荒れるだけ。じゃあ、1本に絞ろうと思ったら、それはそれで貧乏になる。(家の)ローンも抱えているし、生活も苦しくなって、どうにもならなくなっていきました。



















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