3.11被災地での約束から始まった第二の人生ーー日本で突然「クビ宣告」を受けたチリ人が、東京の片隅で《モヒカン姿のシェフ》になるまで

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日本電気には英語版の操業マニュアルはあったものの、アルゼンチンで運営するにあたってはそのスペイン語版が必要だ。そこでNECの子会社が南米一帯で、工学の知識があり、かつ英語からスペイン語に翻訳できる人材を探していたのだ。

チリから見てはるか彼方の日本に興味を持ったエドさんは、これに応募。選考を勝ち上がり、見事に採用と相成った。日本の地を踏んだのは1983年だ。

そして始まった日本での生活は、ひたすらに翻訳する毎日。ネットもAIも翻訳ツールもない時代だ。パソコンはまだ普及しておらず、NECではPC-9801が出たばかり。積み上げられた膨大な紙の書類をひたすらにスペイン語に訳した。

それなりに成果を上げてきたつもりだったが、それは3カ月後、突然のことだった。

「これ、帰りの航空券です、さよならって。クビでした。でも私、そのチケットいらない。日本に残るって言った」

どうしてそう決めたのだろう。

「プライドです。失敗して帰るのは恥ずかしいし、私を選んでくれた人にも悪いと思った」

モデル、タレント、サッカーイベントのプロモートも

そこからのエドさんの日本生活は、まさに波瀾万丈だ。

日本語学校に通って留学生としてビザを取得すると、必死に日本語を学び始めた。同時に、アルバイトで「外タレ」としてあちこちに呼ばれるようになる。モデルになったり自動車のコマーシャルに出たり。おもにメキシコ人という設定だったそうだ。

「エド、カッコよかったから(笑)。あの頃はヒゲも生やしてたし、メキシコ人っぽかったかも(メキシコ男性はファッションや男性らしさのアピールのためヒゲを生やす人が多いらしい)」

日本語学校を卒業後は、自らの翻訳会社を設立。JICA(国際協力機構)のスタッフが中南米に赴任する際のスペイン語テキストをつくるなど、幅広く活動した。さまざまな会社から仕事が舞い込むようになったが、「クビにされた会社が私のいちばんのお客さんになりました」。

と言うのだから、人生はわからない。

さらに翻訳だけでなく、スペイン語、英語、日本語がわかるエドさんはスポーツの分野でも引っ張りだこに。とりわけ南米といえばサッカーだ。

「サッカー選手の代理人とか、サッカーイベントのプロモートとか通訳とか」

自治体と連携して、中南米のサッカーチームを招くための手配を請け負ったりもした。

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