明王朝"最後の名君"のもとで働いた乳母が強すぎた! 仕事中に帰宅し「戻るくらいなら自殺する」と出勤拒否するも、皇帝から受けた"異例の待遇"
乳母は紫禁城を出て、歩いて自宅に帰った。夫はビックリして言った。
「皇室の乳母なんて、めったにないおいしい仕事だぞ。なんでお暇を出されたんだ」
「おいしい仕事? おまえさんにとっちゃあ、そうでしょうとも。でも宮仕えしてるわたしは、おいしいものなんざあ、ちっとも口にできなかったわ。さあ、お肉を買ってきて。ご飯にしましょ」
夫婦が自宅で食事をしていると、宮中から勅使がやってきた。
「皇太子殿下は、乳母どののお姿が見えず、いつまでも泣いておられます。急ぎ宮中に戻るようにと、両陛下がおおせです。ご同道ください」
「戻るくらいなら、自殺します」
勅使はいったん引き返し、またやってきた。今度は賞与の品物をたくさん持参している。皇后はいままで没収してきた恩賜の品物をすべて乳母に返却し、皇帝は乳母の夫に手厚い賞与を下賜した。勅使は4回も往復し、ようやく乳母は重い腰をあげた。皇太子は乳母の姿を見て、やっと泣き止んだ。
以上は、楊儀(ようぎ)『明良記(めいりょうき)』に載せる実話である。
名君はやはり長生きしない?
張皇后はその後、皇太子の弟と妹を産んだが、残念ながら2人とも夭折した。皇太子は一人っ子として育った。
弘治18年(1505年)、弘治帝は夏風邪のような病気になった。初めは軽症だったが、宮廷の医療部門の手違いで間違った薬を処方され、鼻血が止まらなくなり、体調は急激に悪化していく。死を悟った弘治帝は、重臣を集め、皇太子はまだ遊び盛りの子どもなのでよく補佐してやってほしい、と遺言した。病気にかかってから8日目に亡くなった。享年36(満年齢では34歳)。
名君は長生きしない、という明王朝のジンクスを破ることはできなかった。
弘治帝の一人息子で、数え15歳の皇太子が即位した。第11代の武宗正徳帝(在位、1505年〜1521年)である。
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