明王朝"最後の名君"のもとで働いた乳母が強すぎた! 仕事中に帰宅し「戻るくらいなら自殺する」と出勤拒否するも、皇帝から受けた"異例の待遇"

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外廷での弘治帝は果断な名君であり、中興の英主だった。

正史『明史』孝宗紀は以下のように評価する。明の歴代皇帝のうち、建国期の太祖洪武帝と成祖永楽帝を除けば、称えるに値する皇帝は3人だけ。仁宗洪熙帝、宣宗宣徳帝、孝宗弘治帝である、と。

弘治帝は、明王朝最後の名君だった。彼より前の名君の治世は明の前期で、国が若く、右肩上がりの勢いがあった。弘治帝の治世は建国から百数十年がたち、社会は弛緩と退廃が目立ちはじめ、国勢は傾いたが、外廷での弘治帝は「勤政愛民」の政治を行い、国を立て直すことに成功する。

内廷、すなわち後宮での弘治帝は良き家庭人だった。生母を早く失い、さびしい幼年時代を送った影響もあったのかもしれない。

諫言官に批判された皇帝は…

ある日、張皇后の母親・金氏が、娘夫婦の顔を見に参内した。皇帝夫婦は宮中で宴席を設けた。皇帝と皇后の席は正面の上座で、飲食器は黄金だ。金氏の座席は脇に設けられた。皇帝夫妻が脇の席まで行ってのぞくと、飲食器はみな銀だった。

弘治帝が「なぜ母上の器は銀なのか」と侍者にきくと「昔からのしきたりでございます」という答えだった。皇帝の義母といえども、身分は臣下だ。宮中の礼制では、婿である皇帝や実の娘である皇后より、座席も食器もランクは下にされた。弘治帝は、義母に申し訳なく思い、銀器を金器に替えさせ、宴が終わるとその金器を全部、義母に下賜した。

張皇后は夫に「母はすでに恩賞にあずかれましたが、父はまだですわ」とせがんだ。皇帝はすぐさま、別に一席もうけて義父をもてなした。

こんな感じで、弘治帝は妻の身内に甘かった。帝は妻を喜ばせるために、義父や義弟たちに爵位を贈り、妻の実家に立派な家廟を建てさせた。外戚を優遇することは明の祖訓に反する。諸臣は続々と帝に苦言を呈した。特に、皇帝に苦言を申し上げることを職務とする諫言官(かんげんかん)たちは、皇后の2人の弟が高位の官職をもらい、朝政で大きな顔をしていることを批判した。

弘治帝は諫言官に「朕にとっては大事な身内だ。大目に見てくれ」と言う一方で、張家にも諸臣との仲直りの宴を一席設けるよう命じる。宴の当日、諫言官は乗り気ではなかったが、張家の宴席に行った。出てきたのは光禄寺(皇室の食事を管轄する役所。日本の宮内庁大膳課にあたる)の料理だった。

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