明王朝"最後の名君"のもとで働いた乳母が強すぎた! 仕事中に帰宅し「戻るくらいなら自殺する」と出勤拒否するも、皇帝から受けた"異例の待遇"

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紫禁城
明王朝で“最後の名君”とも言える第10代皇帝・弘治帝は、後宮では良き家庭人でもあった(写真:momohana/PIXTA)
中国の歴代王朝に3000年以上も存在した巨大な密室、後宮。そこには数多くの后妃と彼女らに仕える宮女や宦官がおり、「皇帝の世継ぎを安定的に供給するシステム」として機能していた。
明治大学法学部教授の加藤徹氏が綴った『後宮 宋から清末まで』では、この後宮から中華帝国の本質を見ようと、歴史の“裏”で起きたさまざまなエピソードを紹介している。今回は、明王朝で“最後の名君”とも言える第10代皇帝・弘治帝と彼をとりまく女性たちとのエピソードをお届けする。

“最後の名君”こと弘治帝の生き様

弘治帝は生涯、張皇后(孝康敬皇后張氏。1470年/1471年〜1541年。生年不詳)だけを愛し、他の妃嬪を立てなかった。中国史上、夭折した少年皇帝など特殊な例外は別として、自主的に一夫一妻を貫いた皇帝は珍しい。

かつて、西魏(せいぎ)の廃帝・元欽(げんきん。525年〜554年)も宇文皇后(うぶんこうごう)だけを愛して一夫一妻を貫いたが、元欽は在位4年足らずで廃位され、殺された。また西魏は南北朝時代の地方政権で、統一王朝ではない。

統一王朝の天子である隋の文帝や北宋の英宗は、それぞれ「準・一夫一妻」だった。側室は極端に少なかったが、それでもゼロではなかった。

弘治帝の張皇后の父親の張巒(ちょうらん)は、「郷貢」つまり地方の入試をパスして首都の最高学府「太学」に入った秀才だった。頭は良いが、家柄はさほどでもない。母親の金氏は、月が自分の懐に入ってくる、という吉夢をみて張皇后を妊娠した。成化23年(1487年)に選ばれて皇太子妃となり、同年に弘治帝が即位すると、皇后に冊立される。

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