「セリエAへ行くと考えたら怖さが勝った…」 日本にとどまり続けたサッカー元日本代表・今野泰幸が見せた"充足"と"反省"

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FC東京で天皇杯優勝
2012年元日の天皇杯決勝で勝利したFC東京時代の今野(中央、写真:アフロスポーツ)

2010年の南アフリカ大会、14年のブラジル大会と2度のワールドカップ(W杯)に出場し、日本代表93試合出場4ゴールという目覚ましい実績を誇る今野泰幸(南葛SC、以下選手名・監督名後ろのカッコ内は現所属チーム・肩書)。しかしながら、彼は海外でのプレー経験はない。

01年に加入したコンサドーレ札幌を皮切りに、FC東京、ガンバ大阪、ジュビロ磐田、現在の南葛SCと、25年にわたる選手キャリアのすべてを国内で過ごしてきた。同じ04年アテネオリンピック(五輪)世代の松井大輔(Fリーグ理事長)、大久保嘉人らが欧州挑戦に踏み切る傍らで、彼は海を渡る決断を下さなかった。

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なぜイタリア行きを固辞したのか

「アテネ五輪が終わった後、海外移籍の話はありました」

実際にオファーを受けたのは、イタリア・セリエAのクラブ。当時のセリエAは、中田英寿や柳沢敦(鹿島アントラーズトップコーチ)、中村俊輔(横浜FCコーチ)がプレーしていた時代。日本代表に定着していない若手が挑戦するにはハードルが高かった。

「僕もめちゃくちゃ真剣に考えました。東北高校の先生とか親にも意見を聞いてみたけど、『自分で決めろ』とみんな口をそろえる。そういう中で自分自身は正直、怖かった(苦笑)。アテネ五輪ではレギュラーだったかもしれないけど、自分が当時世界最高峰だったセリエAに行けるのかと考えたら、怖さが勝ってしまった。結局は一歩を踏み出せず、日本にとどまることを選びました」

彼が言うように、00年代の海外移籍はほんの一握りの精鋭だけに許されるものだった。06年ドイツW杯の日本代表メンバー23人を見ても、海外クラブ所属はわずか6人。一方で、直近の22年カタールW杯は26人のうち国内組は7人で、長友佑都(FC東京)、権田修一、酒井宏樹(オークランドFC)の3人は欧州からの出戻り組だった。この状況を見てもわかるように、19年前は海外移籍のハードルが今よりも高かったのだ。

しかし、今野がイタリア行きを固辞した後から欧州行きの流れが急激に加速し始めたのもまた事実である。

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