「セリエAへ行くと考えたら怖さが勝った…」 日本にとどまり続けたサッカー元日本代表・今野泰幸が見せた"充足"と"反省"

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「東京はものすごく居心地がよかったし、いいチームだったんですけど、2014年ブラジルW杯を見据えて、もう一段階飛躍することを考えたときに環境を変えるべきだと判断しました。ヤットさん(遠藤)と一緒にプレーして、いいものを吸収していけば、自分はもっとよくなると確信した。『僕なりの勝負』という意味合いが大きかった」

当時は「年俸が倍になった」という報道もあったが、金銭的な条件はそこまで破格というわけではなかった。「僕自身も代理人に『年俸を上げてください』とお願いしたことはまったくない」と今野は明かす。

純粋にレベルアップを考えてチャレンジしたわけだが、結果的にはうまくいかず、ガンバ1年目だった12年は17位。13年はまさかのJ2降格。何とか1年でJ1に復帰したものの、難しい時間を過ごすことになった。

「14年は長谷川健太監督(名古屋グランパス監督)が来て、最終的にはJ1、ルヴァン、天皇杯の3冠を達成しましたけど、僕自身はブラジルW杯前に不調に陥って、難しいシーズンを過ごすことになった。そういう流れを含めてサッカー人生っていろいろですね」

「よく頑張ったなと言いたい」

南葛SC
42歳になった今も現役を続ける(写真:©南葛SC)

18年ロシアW杯に向けても、もう1回代表を狙ってみようという気持ちもあったが、そこまでの覚悟を持てなかったという。

「サッカー選手って『あいつを削ってでもポジションを奪うんだ』というくらいの野心がないといけないし、自分も若い頃はそういうギラギラ感がありました。でも、『楽しくやりたい』という気持ちがどこかにあった気がします。W杯に行こうという人間は、うっすらでもそういう感情を抱いたらダメ。自分がロシアに行けなかったのも当然だと思います」

そんな反省を口にする今野。それでもガンバでは19年7月まで奮闘し、19年夏~21年までは磐田でプレー。20年秋以降は遠藤との再共演も実現した。30代半ば以降はケガも増え、ジョーカー的な起用がメインになるなど、役割も変わっていったが、「Jリーグで20年以上プレーした自分のキャリアを褒めたいですし、よく頑張ったなと言いたい」と彼自身は胸を張る。

日本サッカーが大きく変化した00~20年代を駆け抜けた今野泰幸。さまざまな紆余曲折はあったが、その功績は計り知れない。彼が「記憶に残る選手」だったのは紛れもない事実である。

元川 悦子 サッカージャーナリスト

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もとかわ えつこ / Etsuko Motokawa

1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。

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