「セリエAへ行くと考えたら怖さが勝った…」 日本にとどまり続けたサッカー元日本代表・今野泰幸が見せた"充足"と"反省"
その香川が10年以上も欧州で戦い抜き、ドルトムント、マンチェスター・ユナイテッドでタイトルを獲得。代表でも、18年ロシアW杯で背番号10としての才能を見事に開花させたことは、今野にとっての発見であり、刺激だったようだ。
海外を選ばなかった今野自身はロシアW杯の前年まで代表に名を連ねながら、3度目の大舞台には手が届かなかった。「今野も欧州でハイレベルな経験を積み重ねていたら、代表キャリアも違ったものになっていたかもしれない」という声も少なくなかった。
「でも僕はJリーグでもいい経験ができたし、後悔はありません。地元・仙台で少年のときに僕と絡んだ同級生から見たら、信じられないほど成功したと思っているはず。10代の自分を思い返してみると、本当にごく普通の選手だった。中学生時代はロクにサッカーもしていなかったし、高校時代も代表にはほど遠かった。そんな自分を岡田(武史監督=現FC今治会長)さんが認めてくれて、札幌に入ることになり、実績を残せた。04年にFC東京に行くときも複数のチームから誘ってもらえました」
「ガンバ移籍で年俸倍増」報道の真実

こう語るように、アテネオリンピックイヤーだった04年、今野はFC東京と横浜F・マリノスのどちらに行くかで迷っていた。当時のマリノスは恩師・岡田監督が指揮を執り、03年にはリーグ制覇を達成。04年は連覇を懸けて戦っていた。一方のFC東京は、原博実監督(現RB大宮アルディージャ社長)就任3年目。右肩上がりで成長している時期だった。
「マリノスはめちゃくちゃ強かったけど、東京はまだタイトルを取った経験がないチーム。でも、勢いのある若手が多くて、面白いサッカーをしていました。監督だった原さんもノビノビやらせてくれる人だった。そこに行ったほうがいいと判断しました」
結局、東京では04年のヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)と11年天皇杯のタイトルを獲得。日本代表入りも果たし、南アW杯行きもつかんだ。充実した時間を過ごしたのは間違いないだろう。
そのままFC東京で長くプレーするのかと思われたが、12年にはガンバ大阪へ移籍。この決断は多くの人々を驚かせた。
当時のガンバには、代表で共闘していた遠藤保仁(ガンバ大阪トップチームコーチ)、02年日韓W杯代表の明神智和(同)、06年ドイツW杯代表の加地亮らがいた。さらなる高みを目指していた今野にとって、悪くない環境だった。
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