"W杯で号泣した男"だからわかる「俺たちのサッカー」が世界で通用しなかった本質的な原因、日本代表が世界を制すには何が必要か

2023年から、ユース、そしてプロ入り後の新人時代を過ごした古巣・サンフレッチェ広島で指導者人生を歩んでいる、サッカー元日本代表・駒野友一。彼は06年ドイツ大会・10年南アフリカ大会の両ワールドカップ(W杯)に参戦した。
振り返ってみれば、南ア大会の4年後の14年ブラジルW杯も参戦できる可能性があった。10年秋に発足したアルベルト・ザッケローニ監督体制でも断続的に呼ばれ、11~13年にはブラジルW杯アジア予選にも出場。13年の東アジアカップ(現E-1選手権)にも参戦し、キャプテンマークを巻いて日本代表をタイトルへと牽引した。
しかし、ザック監督は東アジアカップを境に柿谷曜一朗や大迫勇也(ヴィッセル神戸、以下選手名・監督名後ろのカッコ内は現所属チーム・肩書)、山口蛍(V・ファーレン長崎)ら当時の若手を重用。駒野や栗原勇蔵(横浜F・マリノス 強化担当)、中村憲剛(川崎フロンターレ リレーションズ オーガナイザー)といった30代の年長者を外すという非情な決断を下す。
そこからブラジルW杯まで日本代表は山あり谷ありの道のりを強いられ、本大会で惨敗を喫した。そこで批判の対象となったのが、「俺たちのサッカー」である。
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先輩・駒野が見た「俺たちのサッカー」
このキーワードが生まれたのは、南ア大会で超守備的な戦い方をしてベスト16まで勝ち上がりながら、「見ていて面白いサッカーじゃない」と当時の若手だった本田圭佑らが不完全燃焼感を吐露したのが発端だった。
彼らは「次の大舞台では、自分たちで主導権を握って敵を凌駕するサッカーをしたい」と強気の姿勢を貫き続けた。だが、結果的にはコロンビアなどの強豪国に大きな実力差を突きつけられる格好となった。
自らが立てなかった舞台でもがく後輩たちを、駒野はどう見ていたのか。
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