――当時の三谷さんといえば、劇団「東京サンシャインボーイズ」や映画『12人の優しい日本人』などで注目を集めていた頃ではありますが、それでもゴールデンタイムの連ドラで三谷さんにオファーを出すのは、抜擢だったのではないでしょうか。
正直言うと、『振り返れば奴がいる』というドラマは、当初は別の企画で進んでおり、僕はアシスタントで参加する予定だったんです。しかしいろいろとあって、その企画は成立しなかった。1月スタートの予定だったのですが、その企画が飛んだのが前年の11月初旬頃だったと思います。12月にはクランクインをしなければいけないのに、どうするのかと思ったら「石原、好きにやってみろ」と上から言われた。
急にひとりでプロデュースをすることになったのですが、今からお願いできる脚本家もいないですし、困ったなと思っていた。それで、当時の三谷さんは舞台を中心にやっていて、ひょっとしたらと思って声をかけることにしたのです。今でも覚えていますが、東京・東中野にあった東京サンシャインボーイズの稽古場に訪ねていき、そこで「実は連ドラを書いてほしい」とお願いしました。
すでにキャスティングは決まっていた
――三谷さんはどのようなリアクションを?
最初は「(当時全盛だった)トレンディードラマは書けませんよ」と(笑)。僕もそういうものを頼もうとは思っていないと。ただ、放送が1月だと聞いてビックリしていましたね。織田裕二さん、石黒賢さんというキャスティングは決まっていたので、自分の中で考えていたドラマのイメージをお話しました。設定やディテールは決まっていなかったのですが、それを語ったら「面白そうですね。少し考えさせてほしい」ということになり。その後も紆余曲折はありましたが、最終的にはああいう形になりました。
――しかしドラマは大ヒットしました。
今にして思うと、土壇場の勢いがあった作品でした。もちろん毎回、そのような形を狙ってはいけないとは思うのですが、スタッフもキャストも、限られた時間の中で絶対に成立させるんだという集中力がありました。
また、僕が指定したわけではないのですが、三谷さんの脚本も、病院内という室内で進む話が多かったので、スケジュール的に成立したということもあります。いろいろな場所で撮影することになったら、きっと無理だったでしょうね。それができたのも、三谷さん自身がそういうスタイルがお好きだったということと、実際に舞台でもそういったものを書かれていたということがあります。今回の『ギャラクシー街道』もそういうスタイルは変わっていないと言えます。
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