伊東市・田久保市長に聞かせたい「東洋大学」創設者の"金言"、建学の理念と市長の振る舞いに隔たりはないか
かつて大学進学率が低かった頃とは比べ物にならないほど大学が増えた。日本の大学数は2024年度時点で793校に達した。文部科学省の「学校基本調査」によると、1984年時点では、現役高校卒業生の大学・短期大学進学率は29.6%、浪人生を含めた進学率は35.6%だった。 2024年には、前者が62.0%、後者は約62.3%まで上昇した。
この結果、大学教育がかつての「最高学府」としての存在感が薄れ、「高校の延長」のようになってきた。それは、次のような言葉の変化にも見て取れる。
大学ではなく「学校へ行ってくる」、教職員が「うちの学生」とは言わず「うちの子」と口にする。 講義は「授業」となり、文部科学省までが「授業」という言葉を使う。大学教授は(准)教授ではなく「教員」と呼ばれ、研究職というよりも「学校の先生」というイメージが定着しつつある。
大学によっては、「担任」制度を設けるところが出てきた。以前から大学にはゼミがあったものの、「担任」という呼称をほとんど耳にすることはなかった。
大学が高校化しているのだから、高校が百花繚乱であるように、大学も多様化している。筆者は、神戸大学(大学院・学部)の助(准)教授を皮切りに学術の世界に入り、国立から地方の私立まで複数のレベルが異なる大学で教鞭をとり、企業の人事関係者でさえ知らない若者の素顔を見てきた。
確かに、偏差値が高い大学では学生の学力が一定水準に保たれている。一方、偏差値が低い大学では「こんなことさえ知らないのか」と呆れるほど基礎学力・知識・情報が不足している大学生や、無気力無関心で積極性に欠ける指示待ち人間が少なくなかった。
「面倒見の良い大学」が抱える大問題
だが、偏差値が低い大学だからといって、すべての学生や卒業生の能力、資質が劣っているとは言えない。筆者の経験から言えば、地方の偏差値が低めの私立大学でも、人当たりがよく、明朗闊達な若者がいた。筆者のゼミには、在学中に地元で会社を設立した学生起業家、比較的難しい資格試験に合格した学生、学歴フィルターで跳ね飛ばされそうな有名大企業に採用してもらった積極的な学生もいた。
一方、無気力無関心で消極的な学生、一見すると積極的に映るが、自分のことはさておき、権利主張だけが強い反抗的な学生が年々増えているのも否めない事実だ。すべての大学生がそうであると一般化できないが、大学関係者からは同じような本音をよく耳にする。
近年、増えている「面倒見の良い大学」では、消極的、攻撃的な学生が増えてきた。就職活動の支援や心身の悩み、学生生活に対する支援といった、高度化・複雑化する社会に対応した「健全な面倒見」はより充実しなくてはならないが、学生を大切にすることと甘やかすことを混同してはいけない。
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