
松平定信「二度も田沼を刺し殺そうとした」
恐ろしくカタブツで独善的な男が老中になったものだ……江戸のクリエイターたちは、そうため息ついたことだろう。
天明7(1787)年6月、松平定信は30歳で老中に抜擢されると、すぐに老中のトップである老中首座に就任。天明8(1788)年3月には、将軍補佐にまで任命されている。時の将軍は第11代将軍・徳川家斉だ。「定信に全部任せてしまおう」という意向がありありと伝わってくる。
全権を掌握した定信が断行したのが、「寛政の改革」である。ぜいたく品を禁止して倹約を推奨。緊縮政策をとって財政再建を目指しながら、コメを備蓄する「囲米」制度を実施し、飢餓にも備えた。
その一方で、定信は思想統制や言論弾圧にも乗り出している。上下関係や身分の秩序を重んじる「朱子学」以外を禁じたばかりか、風俗を乱したり、政治批判を行ったりする出版物を禁じる「出版統制令」まで発布した。
庶民は、田沼時代の自由で開放的な文化を懐かしんだようだ。「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が詠まれたことはよく知られている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら