そんな風潮が先なのか後なのかわかりませんが、「子どもに迷惑をかけたくない」とか「子どもの世話にはなりたくない」という親は、いまや大勢を占めているように感じます。私が漏れ聞く、いくつかのおばさんグループの意見も、この考え方が大半です。私は内心、そんなグループには、かかわりたくないと思っています。
なぜかと言いますと、これらの考え方の多くの人は、子ども可愛さに、迷惑をかけたくないと言っているのです。まるで「最後まで、手のかからないいい親として去りたい」と願っているように聞こえます。親がここまで遠慮して、子どもの人間としての成長があるのでしょうか。
あるいは一部の人には、「今までさんざん子どもには世話をし、応援をしてきた。最後に世話になって、それらをチャラにしたくない」と言っているようにも、私には聞こえます。もちろん、関係がうまくいっていない親子では、意地もあることでしょう。
いずれにせよ人生の最後など、本人の思うように運ぶ人は、ほとんどいません。世話をかけたくないと思っても、何等かの形で誰かに世話にならないと、ひとりでこの世から旅立つことは不可能です。ならば子供に世話にならないと豪語する方が、私には不遜に聞こえますし、そのことを話題にして盛り上がる席には、加わりたくありません。
確かに親は、子どもから頼まれて子どもを産んだわけではありません。しかし子供を一人前にするまでに、どれだけの愛情と手間ひまをかけたでしょう。その親が老い、ひとりで出来ることが、だんだん失くなってくるのです。その親をどんな形にせよ、子どもがサポートするのは当然だと考えます。
そんな親の世話を何もせず、平気な顔をして社会では偉そうな顔をしている人がいますが、私はそのような人は信用できません。つまり私の考えでは、老後に子どもの世話にならないという考え方は、美徳ではありません。子どもをスポイルしているにすぎないと感じます。もちろんすべてのケースに当てはまるわけではありませんが。
親の介護は、親のためならず
親の介護をして始めて親の気持ちが理解できた人や、親への愛情を更に強くした人を、私はたくさん知っています。
たとえば20年前に離婚した私の友人の白井さんには、母子家庭で育てた38歳の娘(孝子さん)と35歳の息子(海さん)がいます。今年の春、ほとんど音信不通だった元夫から娘の孝子さんに電話がありました。孝子さんは出産直前でしたが、父親の入院先の病院へ飛んでいきました。父親は重い病気にかかっていて、余命がわずかなのは、一目でわかったそうです。
それから毎日孝子さんは、父親の看病に通いながら、結婚して別居している弟の海さんにも、病院へくるように説得し続けました。会いたくないと言い張って、テコでも動く様子がなかった海さんを、母親が自分も行くからと言って、無理に連れて行きました。母親は、あとで海さんにどんな形にせよ父親に対する後悔の念を、持たせたくなかっただけだったそうです。
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