「終バスは10時」「タクシーは1時間待ち」…当初は鉄道がなく“通勤地獄”だった「多摩ニュータウン」を≪アナログ写真≫とともに振り返る

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八王子市立田小学校
人口急増でプレハブ校舎で学ぶ小学生(八王子市立田小学校、1971年11月1日、高橋孫一郎撮影)
1971年11月に町から市に昇格した多摩市の「祝 市政施行」の垂れ幕(1971年11月1日、高橋孫一郎撮影)
(1976年1月28日、豊永邦男撮影)

戦後最大の都内の住宅開発「多摩ニュータウン」

1976年の多摩地区の写真では集合住宅が並び建つ地域の手前には、未だ造成中の土地が見える。

戦後最大の都内の住宅開発とされるのが多摩ニュータウンだ。東京都の多摩市、八王子市、稲城市、町田市にわたる、面積2853ha、戸数約10万戸、人口約22万人という巨大コミュニティの形成が計画され、その範囲も住民の規模も巨大だった。

昭和44(1969)年6月には多摩ニュータウンの起工式が行われ、昭和46(1971)年に多摩市の諏訪地区の団地へ、ニュータウンの第1次入居が始まっている。

その1971年11月には、“多摩町”は多摩市に昇格。65年に多摩ニュータウンが都市計画決定され、今後開発が進められる多摩地区一帯の状況は急速に変化していった。

買い物に向かうニュータウン住民と見られる主婦たちの傍に、造成工事に携わる作業員の姿が写っているが、買い物かごを持つ女性たちや、おんぶ紐で乳児を背負って幼児の手を引く女性の姿には、昭和の時代の懐かしさを感じる。

その背後にはやはり乳児を抱いた家族連れの姿が見えるが、当時のニュータウンにはこうした若い世帯が数多く入居し、そうした彼らの家族形態は「ニューファミリー」と呼ばれ、新しい時代のライフスタイルを象徴するものでもあった。

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