「終バスは10時」「タクシーは1時間待ち」…当初は鉄道がなく“通勤地獄”だった「多摩ニュータウン」を≪アナログ写真≫とともに振り返る

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ニュータウンは建物が老朽化、住民が高齢化して限界集落化などという報道もあるが、永山駅で電車を下りて諏訪地区、永山地区を歩いてみると思ったほど街は古びていないし、親子連れや公園で遊ぶ子どもの声も聞こえてくる。

諏訪地区では、老朽化した団地を民間マンション「ブリリア多摩ニュータウン」に再開発した街区や、再生事業、小学校跡地への集合住宅建設なども行われている。多摩市でも「多摩ニュータウン リ・デザイン 諏訪・永山まちづくり計画」が策定され、人工の横ばい、もしくは微減に対応した魅力あるまちづくりを進めているという。

「街づくり」は40年で終結

多摩ニュータウンの開発を中心的に進めた日本住宅公団は、1981年に解散し、その業務は住宅・都市整備公団に承継。2004年にその業務はさらに都市再生機構(UR)に移管された。

(1994年6月1日、吉野純治撮影)

そして、都市再生機構が施行する多摩ニュータウンの開発事業は2006年3月末をもって終了。「多摩丘陵に計画的住宅市街地を建設し、良質な住宅を大量に供給することを目的」とした事業は、昭和40(1965)年の都市計画決定から約40年で幕を閉じた。

現在のニュータウン全体の人口は約30万人。

壮大な実験場として開発されていった日本最大級のニュータウンは、今後再び、高齢化、人口減少社会の実験場となっていくのだろうか。

【もっと読む】「埼玉=ダサいたま」のイメージが1980年代に”全国普及”したのはなぜ?当時の大宮・浦和・川越の街並みをアナログ写真と共に振り返る では、大宮・浦和・川越などのエリアの80年代の様子を、文筆家の鈴木伸子さんが、過去の豊富な写真とともに振り返っている。 
連載
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鈴木 伸子 文筆家

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すずき のぶこ / Nobuko Suzuki

1964年生まれ。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『中央線をゆく、大人の町歩き: 鉄道、地形、歴史、食』『地下鉄で「昭和」の街をゆく 大人の東京散歩』(ともに河出書房新社)『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトル・モア)などがある。

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