「終バスは10時」「タクシーは1時間待ち」…当初は鉄道がなく“通勤地獄”だった「多摩ニュータウン」を≪アナログ写真≫とともに振り返る

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しかし、小田急、京王の永山駅や多摩センター駅が開業する以前にこの地に入居した住民たちは、鉄道が開通するまでの数年間、とんでもない通勤地獄を味わった。

終バスは10時、タクシーは大行列

当時、諏訪・永山地区から一番近い鉄道最寄り駅は京王本線の聖蹟桜ヶ丘駅だったため、朝は満員の路線バスで聖蹟桜ヶ丘駅まで行き、帰りはバスが夜10時過ぎるとなくなるため、電車が聖蹟桜ヶ丘駅に着くとホームから一斉に走ってタクシー乗り場に行列。連日1時間は並ぶことになり、タクシー代もかさむ上、家に帰り着くのは深夜になる。

これではたまらないと、住民有志で中古のマイクロバスを購入し、学生アルバイトなどに運転してもらう「会員制バス」を自主運行していたという話が、多摩市によるニュータウン開発史に掲載されている。

当時人気の高かったニュータウンの集合住宅に、まずは抽選に当たって入居した家族は、都心への通勤の手段である鉄道、道路という交通インフラ、そして学校や病院、商店、学童保育など生活インフラが未だ充分に整備されていないという現実に直面し、自治体に抗議しながらも、まずは自分たちの手で生活環境を向上させていく努力を重ねていった。

起伏の多い多摩の丘陵地にニュータウンを開発する計画は、丘陵の自然地形を生かすことが検討されたが、住宅を大量供給するという開発の目的に合致しないということで、当初に開発された地域では、大規模な土地の造成が行われた。

何十年にもわたる開発は、試行錯誤の連続となり、のちに開発された地域には自然地形を生かした街区も見られる。

当初から歩車分離で計画されたため、住棟が並ぶ区画内は歩行者が歩きやすく、車道を挟んだ地区間は歩行者デッキで繋がれて、坂道を上り下りしなくても移動が可能になっている。開発から50年経つうちに樹木も大きく育ち、ニュータウン内は自然豊かな住環境となっている。

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