多くの支店を持つ須原屋のなかで、須原屋市兵衛の「申椒堂」(しんしょうどう)は革新的な書物を多く手がけた。だが、その一方で手堅いジャンルでの出版活動も行っており、蔦重の経営法とも共通点が多い。どんな出版人だったのだろうか。
初代・須原屋茂兵衛の「のれん分け」で支店が誕生
江戸の出版業界において最大手の書物問屋となる「須原屋」は、初代の須原屋茂兵衛が、万治年間(1658〜1661)に紀伊国有田郡栖原(すはら)村から江戸にのぼり、日本橋南に本屋を開業したことが始まりとされている。諸説あるが、須原屋の名は茂兵衛の出身地に由来しているようだ。
創業時は薬屋を兼業していた茂兵衛だったが、幕府や大名とのつながりを持ち『武鑑』や『江戸絵図』など公的な書物を手がけて財を築くと、のれん分けをして数々の支店を作った。須原屋市兵衛もその一人であり、日本橋室町2丁目に「申椒堂」(しんしょうどう)を開業している。
ちなみに、同じく須原屋茂兵衛からのれん分けされた須原屋三郎兵衛は、絵師・北尾重政の父である。重政は、門下生たちが浮世絵を描く一方で、自身はあくまでも本の挿絵を中心に描き続けた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら