それにしても、家治はなぜ、それほど政務から遠のいたのだろうか。そこには、家治のプライベートな苦悩があったのではないかともいわれている。
家治は12歳のときに、母のお幸の方と死別している。可愛がっていた吉宗は心配のあまりに、母が死去した同年に、家治に妻をめとらせようと、婚約話をまとめた。相手は、閑院宮直仁親王の娘・五十宮(倫子)である。
その翌年に倫子は江戸に下るが、まだ若かったため、婚儀が行われたのは、その4年後のことだ。婚約をとりまとめた吉宗はすでに他界していたが、5年にもわたる婚約期間が、2人の結びつきを強くすることとなった。
家治と倫子は仲睦むつまじく、家治は側室を迎えることにも消極的だったという。実際に、家治の側室は2人だけで、歴代将軍のなかでは異例ともいえる少なさである。
子どもたちが次々と死去
しかし、倫子は明和8(1771)年に34歳の若さで死去してしまう。最愛の妻亡きあと、跡継ぎの成長に楽しみを見いだせたならば、悲しみも癒えたかもしれない。だが、それもかなわなかった。
家治は倫子との間に2人、2人の側室の間に1人ずつと、2男2女をもうけたが、長男の家基以外は早世。その家基も18歳のときに鷹狩の帰りに突然、発病して急死している。
跡継ぎが絶えてしまったため、一橋家から養子として豊千代を迎えて、次期将軍とすることとなった。これが11代将軍の徳川家斉である。
妻を亡くして、子どもも次々と失くした家治。あまりにつらい出来事が重なったために、家治は政務を意次に任せ、自身は書や将棋に没頭して、悲しみをやわらげたのだろう。
【参考文献】
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
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