これは第三十六段、「七月ばかりいみじうあつければ(七月のある残暑の朝に)」からの引用だが、枕草子にしては珍しく三人称で書かれている。作者が第三者としてその風景を眺めているかのように話しているが、実際は彼女自身の記憶なのかもしれないし、男性とお別れする完璧の朝の単なる想像なのかもしれない。
しかし、そこで大事なのは、「人はいでにけるなるべし」、つまりもう見ている人は誰もいないということ。相手が帰ったからといって、髪の毛がボサボサ、穴を開いている使い古したTシャツを着ることはしない。清姐さんがイメージするのは、色や素材が細かく調和されている絵なのだ。とりとめのないディテールやしぐさでも、だらしなさゼロ、何もかもが「をかし」そのものなのである。
忍び込んでくる男性は朝になったら露のごとく消えていなくなるけれど、自分がキレイでいられるという素敵な気持ちはずっと心の中に残るのよ、というようなことを言いながら、派手な柄のスカーフを得意げに身にまとい、マダムな気分に浸って街を闊歩する清姐さんの姿が目に浮かぶ。もうオシャンティですこと!
スーパーにノーメークは御法度
■其の三、女たる者はいつだって本気
女性が家を出ることがほとんどなかった平安時代だが、化粧や服装など、最も気合を入れるシチュエーションは儀式や式典といった、つかの間の外出だった。枕草子の第二○六段には、翌日積善寺詣でを控えた女房たちの最も凛とした姿が描写されている。
めったに許されない外出は勝負なり。それに臨もうとしている女たちの表情はやはり真剣そのもの。近所のスーパーに出かけるぐらいならこのままでいいや、という間抜けな行為を、清姐さんはきっと許してくれない。
清少納言が定子に仕えるようになって1年たった頃、当時の関白だった定子の父親藤原道隆が病没。その後、関白の座がいろいろな人へ渡るが、次々と失脚して定子の立場は危うくなる一方だった。清少納言自身もまた、悪い噂をたてられて実家に追いやられてしまう。枕草子を書き始めたのは、ちょうどこの頃だと推測されている。一度定子の元に戻るが、定子は24歳の若さでこの世を去り、それ以降清少納言は宮仕えを退き、摂津に身を寄せる。晩年についての記録は何も残っておらず、どのように過ごしたかは不明だ。
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